財施を受ける資格
布施は、宗教者や教団に対する財施(金品を献納すること)だけを指すわけではないということは、すでに述べた通りです。しかし、宗教について考える時には必ず取り上げられる問題ですし、一般的にも関心の高い問題だと考えられますので、もう少し考えてみたいと思います。
本来の布施の意味である「広く施す」という観点からすれば、布施を受ける側に特に資格は求められるということはないはずです。
「福田(ふくでん=福徳を生み出す田、幸福を育てる田地の意味)」といって、布施することによって幸福をもたらす対象とされるものはありますが(例えば、仏や僧などを敬田、父母や師匠などを恩田、病人・貧者などを悲田の三つを「三福田」といったりします)、施される側の資格というわけではありません。
法施と財施のバランス云々とはいっても、もともと布施は見返りを求めないものですし、「布施させていただく、功徳を積ませていただく」というものですから、受け取る側のことを云々するべきものではありません。布施する側に真心があれば、たとえ相手がどうであっても、相応の報いが得られるはずです。
とはいえ、宗教者に布施(財施)する場合には、やはり、受けるにふさわしい内容を備えていてほしいと思うのも、当然の人情でしょう。
また、宗教者の側においては、布施する側の問題とは無関係に、布施を受けることに対する責任というものがあるはずです。
そこで、もう少し観点を変えて考えてみたいと思います。
上座部仏教においては、修行の最上位に達した人、最高の聖者を「阿羅漢」といいます。もともとは仏の十号(10の称号)の一つでしたが、後に区別されるようになり、仏弟子が到達する最高の段階とされます。修行を完成し、涅槃に入った聖者です。
この「阿羅漢」というのは、サンスクリット語の「アルハット」の音訳で、拝まれるべき人、尊敬されるべき人といった意味とともに、供養を受けるにふさわしい人という意味があります。そのため「応供」と意訳されます。
「供養」というと、一般的には「先祖供養」すなわち死者の霊に対して読経や供え物をすることを思い浮かべることが多いのではないかと思います。あるいは仏様(お寺の本尊や道ばたのお地蔵様など)に対する供養を思い浮かべる人もいるかもしれませんが、辞書的な説明では「仏法僧の三宝や死者の霊に身口意の三方法で供物を捧げること」ということになります。
もともと、インドのバラモン教の祭儀では、動物を儀式にする「供犠」が行われていました。これに対して不殺生を唱える仏教が、非アーリア系の原住民が行っていた、油を塗り、香を焚いたり花や水、燈明を供える風習を取り入れたのが「供養」だとされ、三宝に対する供養が説かれました。
例えば、「四事供養」というと、サンガ(僧団)に対する衣服・飲食・臥具・湯薬の施与を指し、初期の教団においては主にこういったものが供養されたようです。後には、仏塔や廟、仏像、坊舎、土地などまで施与するようになりました。
つまり、宗教者に対する「財施」は、三宝に対する「供養」に相当するわけです。そこで「応供」という意味をを考えると、供養すなわち財施を受けるにふさわしい人というのは「阿羅漢」すなわち修行を完成して涅槃に到達した人ということになるのではないでしょうか。
三宝への供養には僧宝への供養もふくまれるわけですから、必ずしも悟っていなければならないというものではありません。そうは言っても、単なる寺院の管理人や儀式執行者に供養するというのも釈然としないものがあります。もちろん、そうであったとしても、仕事に対して謝礼を受けるのは当然でしょうが。
財施をする人にとって、問題は自分自身であり、受ける側の問題ではないというのが原則でしょうが、宗教者であれば、財施を受けるものの責任として、布施したことを後悔させるようなことがあってはならないでしょう。
さて、宗教に対して批判的な人々から、よく「祈祷やお守りなどの授与品に定価がついているのはおかしい」という疑問を投げかけられることがあります。それについても、少し考えるところを述べたいと思います。
まず、形式的なことから。基本的に、祈祷やお守りなどの授与品には「定価」はつけられていません。あくまで「祈祷料」や「初穂料」といった名目になっているはずです。というのは、「定価」であれば営利事業と見なされるためだそうです。
これは私自身で確認したわけではありませんが、昔、教団の機関紙の編集をしていた時、法務や財務の担当者から常にチェックを受けていましたので、まず間違いのないことと思います。
ですから「定価」というものはないはずなのですが、もちろん、これは本質的な説明になっているわけではありません。言うまでもなく、問題は宗教的な行為や授与品に対して、支払うべき金額が定められることが是か非かということにあります。
宗教に対して批判的な人は、祈祷料などは受けた本人の心次第であって、払うべき金額が決められるなどというのはとんでもないことだといいます。畑で取れた野菜であっても、心が込められていればいいではないかという人さえいます。
これは、確かに理想論としてはもっともなことであり、本来の宗教はかくあるべきだと思います。
極端な話をすれば、宗教的な救いを受けるために決められた額のお金が必要だということになると、お金のない人は救われないのか、ということになります。そういう人こそ、救いが必要であるにもかかわらずです。
しかし、現実的には非常に難しい問題で、私自身は、祈祷料などが定められることは望ましいことではないが、ある程度はやむを得ない、いわば必要悪だと考えています。
まず、品物でもいいじゃないか、という点については、現代の日本においては、山の中で自給自足でもしないかぎり、ある程度のお金は必要不可欠です。実際、宗教活動をするにおいても、家賃もいれば光熱費もいる、通信費その他も必要です。本人の生活においても同じです。
私の知人に、親が某教団の分教会長をしているという人がいます。本人は外に出て、弟さんが跡を継ぐことになっているそうなのですが、信者さんからの差し入れで食べるものには困らないものの、現金収入が厳しいのだそうです(ほとんど上に献納するのだそうです)。それで、奥さんをもらっても耐えられるかどうかわからないということで、ずっと独身のままだといいます。
ですから、品物でもいいというのは、本質的にはその通りですが、現実的にはそれだけでは困るわけです。
また、心次第といっても、日本人は江戸時代の越後屋による正札販売以来、定価に慣れていますから、自分の価値観に応じて値を決めるという習慣がありません。そのため、一般的な相場に合わせようという意識が強く、むしろ定価があったほうが安心されるという側面もあります。
実際、「ご自分の心次第で」と言っても「いくら出せばいいか、言ってください」という反応が返ってくるのは、決して珍しいことではありません。
その上、現代の価値観は物質中心ですので、案外、贅沢や無駄な出費には無頓着な割りに、宗教的なものに対しては、少しでも削ろうという風潮が強いように思われます(そうでない人もいますが、少数派だと思います)。
あるいは、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、問題が解決するまでは一生懸命頼ってくるのに、解決すると、それまでの苦しさを忘れて、お金が惜しくなるという人も珍しくありません。
まして、お金はなくてもいいということなると、してもらうことが当たり前になってしまい、感謝がなくなってしまう人さえいます。これでは本人のためにもなりません。
こういった問題は、現代の価値観や風潮と大いに関係があります。これを改めない限り、相手の心に任せるというのは、不可能でないまでも、よほどの決意がなければできないことです。現実的に、いくら宗教者といえども、必ずしもそこまで求められるものとは思えません。ただし、あくまで理想はそこにおくべきでしょうが。
ですから、ある程度は金額が定められることもしかたがないと思うわけです。
とはいえ、やはり現実にはお金はないけれども救いが必要だという人はいますし、また、そういう人こそ救済の対象の筆頭であることは間違いありません。
結局はバランスの問題で、宗教家それぞれの見識と実践が問われるところかと思います。
本来は、余裕のある在家の人々が宗教者に財施をして、自分ではできない衆生救済活動を支えるという形が確立することが望ましい姿でしょう。
つまり在家者の意識改革が必要なのですが、それだけに宗教者の姿勢が問われるところで、単なる寺院の管理人や儀式執行者であってもらっては困るわけです。