法施と財施
一般的には、お布施というと、お坊さんに読経その他をしてもらったお礼と思いこんでいる人が多いようです。確かにそれも布施ではありますが、そのごく一部分のことであって、それだけが布施だと考えることは大きな間違いです。
布施の「布」は「布(し)く」、つまり広く行き渡らせるという意味です(分布とか布教と同じ)。ですから、布施とは「広く施す」「あまねく施す」という意味になり、お坊さんや教団に対するものだけを指すわけではありません。
サンスクリット語では「ダーナ」といい、「与える」という意味です。音をとって「檀那」となりますが、日本や中国では布施をする人・僧や寺院に経済的援助をする人を指すようになりました。
また、「無財の七施」という言葉もあるように、施すものは金や物に限るわけではありません。法でも労働でも、惜しまずに恵み与えることが布施です。金や物などの財を布施することは「財施」といいますが、これに法を説いて真理を悟らせる「法施」、人々の不安や恐怖を取り除き、畏れることはないという確信を与える「無畏施」を併せて「三施(三種類の布施)」といいます。
ですから、一般にお布施と考えられている僧侶への感謝は「財施」になります。これに対して、僧侶が読経したり、説法をしたりするのは在家者に対する「法施」に当たります。
つまり、仏教においては、出家者は在家者に「法施」をし、在家者から「財施」を受けるという関係にあるわけです。これは、他の宗教においても、言葉こそ違え、同じ事だと言えます。
そこで問題となるのが、この「法施」と「財施」 のバランスです。こういうと、一般的には「財施」の比重が大きくなり、「坊主丸儲け」になることを思い浮かべるものと思われます。勿論その通りではあるのですが、その逆、つまり「法施」を受けても「財施」をしない(もしくはケチる)というケースも忘れるべきではありません。
宗教者といえども霞を食べて生きているわけではありません。また、修行に徹するにしても、衆生救済に徹するにしても、仕事を持って自分の食い扶持を稼ぎながらとなると(日常生活自体を修行と考える在家の修行は別として)、どうしても中途半端にならざるを得ないと思われます。そのためには、やはり在家者による経済的な支えが必要であるわけです。
ところが、世の中には、自分が大変なときには必死になって頼りながら、問題が解決すると「喉元通れば熱さを忘れる」で、お布施が惜しくなるどころか、ろくにお礼さえしないという人さえいます。いわば「御利益泥棒」とでもいうべき人たちです。
あるいは、悪意はなくても、宗教者が衆生を救済するのは当然のことで、それに対してお布施をするものだという感覚がない人も少なからずいます。私なども、どちらかというとそういう種類の人間で、深く宗教の世界に携わるようになって、人がお布施をしている姿を見て、そういうものだということをハッキリ認識した(頭では知っていたわけですが)ものです。これは個人差もありますが、家風の影響が非常に大きいようです。
それはともかく、在家者の財施によって出家者の生活や修行、衆生救済活動が支えられているわけです。そのことは、在家者にとっても、法を広め、衆生を救済する活動に参加したのと同じ意味を持つともいえます。しかし、それ以前に、感謝をするということは宗教以前に、人間として当然のことであると思うわけです。また、そういう当然の感謝をしてこそ、受ける恵みも大きくなることは当然でしょう。
この「法施」に対する「財施」の欠如という問題が見落とされがちである理由については、布施の本質に関わる問題があり、考察してみる価値があると思います。
現代では、往々にして宗教活動もかなり経済活動化していますから(それにはやむを得ない部分もありますが)、そういう教団や宗教者においては「財施」の部分はきっちりと徴収しています。それに対して、相応の「法施」をしているとは限らないため、「坊主丸儲け」などという批判が起こるわけです。
ところが、ところが、さらに突っ込んで布施というものを検討すると、そもそも上記のような法施と財施の関係自体、本来の布施とは言い難い面があるのです。そもそも上記のような法施と財施の関係自体、本来の布施とは言い難い面があるのです。
先にも少々触れたとおり、布施とは、自らの持てるものを惜しまず恵み施すことを指しますが、もう一つ大切な要素として、道元禅師の言葉にも「但〔ただ〕彼が報謝を貪らず、自らが力を頒〔わ〕かつなり」とあるように、「見返りを求めない」ということがあげられます。
ですから、読経をしていくらとか、祈祷料いくらというような「法施」と「財施」は、商品・サービスの提供に対して代金を受け取るというようなものであって、本当の意味での布施とは言い難いわけです。つまり、非常に難しいことではありますが、法施にしても財施にしても、お互いに見返りを前提とせず、ただ施すという関係が本来あるべき姿だというわけです。
現実的には、多くの宗教者や教団では実質的な定価をつけて、きちんと代価を徴収しているわけですが、それでも商売ではありませんから、御利益泥棒みたいな人物も出てきます。そういう際も、宗教という性格上、そういう不埒な人物であっても咎めることはできません(少なくとも、私の知る範囲では)。
まして、本来あるべき姿を目指している宗教者であれば、見返りを求めずにやるわけですから、お礼をされるかどうかは相手次第、本人から求めることはできません。また、法施である以上、見返りがなかったとしても、よしとしなければならないわけです。
ですから、そういう宗教者は、気を許した人には、そういう話をすることはあっても、それを取り立てて問題にしたり、当人に文句を言ったりすることはめったにないと思われます(絶対ないとは言えません……本人のため、ということもありますから)。そのため、一般的には問題として意識されることが少ないのでしょう。
まして、今の世の中は唯物的な価値観が強くなっていますから、形あるものにお金を出すことに抵抗はなくても、心の問題のような目に見えないものに対してお金を出すのは抵抗がある、という人が増えているように思われます。
私もそういう点に関しては、さんざん迷惑をかけてきた口なので、偉そうなことは言えないのですが、それにしても、人間が如何に身勝手な存在かということを実感する場面が少なからずあるようです。
確かに、こういう事情を乗り越えて法施に徹し、次第に善い人が集まってくるというのが本来あるべき宗教者の姿でしょうし、私もその点について異論はありません(また、そういう宗教者も実際にいます)。しかし、現代社会においては非常に厳しい現実がありますから、なかなかそこまで要求することはできないのではないかと思います。
もちろん、そのような現状が理想的なあり方でないことは言うまでもありません。また、まず宗教者の姿勢が問われなければならないとも思います。しかし、在家の側も、出家者を支えるという役割があり、法施と財施のどちらが欠けてもいけないのだということを忘れるべきではないと思うわけです。