宗教団体の問題を論ずる際に、もっとも批判を受けやすいのが「お布施」「献金」の問題ではないかと思われます。霊感商法その他の悪徳商法は論外ですが、伝統宗教であれ、新宗教であれ、何かとお金がらみの問題が取りざたされることは少なくありません。
そもそも宗教と経済の問題は近年になって起こったことではありません。昔から、このことが問題とされていたことは、一休禅師の作と伝わる「みな人は欲を捨てよとすすめつつ 跡で拾ふは寺の上人」という歌からも明らかです。
とはいえ、いくら宗教者だからといっても、生きている以上は肉体を養わねばならず、そのためには経済的な支えが必要です。まして現代においては、宗教活動をするためにも、ある程度のお金が不可欠になります。
そうなると、いくら宗教とはいえ、俗世との関わりの中での営みが生じるわけですが、「道を立てんとすれば財を成せず、財を成さんとすれば道が立たず」で、このバランスを取るのは極めて困難だと思われます。結局、どの程度であれば許容範囲内として認められうるかが問題になるでしょう。
ただ、各教団や宗教者において経緯や事情も違い、活動の内容も異なりますから、一律に考えることは不可能です。それよりも、その前提として「布施」とは一体何なのかということを考えるところから始める必要があると思います。その前提があれば、自ずとある程度の限度が決まってくるのではないかと思われるからです。
熱心に信仰をして、せっせとお布施をする人にしても、「お布施をすれば功徳がある」と考える程度で、本来「布施」とは如何なるものかということについては、深く考えていない人が多いのではないでしょうか。
あるいは、宗教や信仰に対して冷ややかな人は、「お布施」というと、「坊主丸儲け」で、収入の手段としてしか見ていない人も少なくないと思います。
これは、必ずしも宗教に関わっていない人だけとは限りません。私が関わりを持っていた教団において、ある中堅スタッフが、信者さんからなぜお布施をしなければならないのかと聞かれて、「先生も生活をしないといけないし、そのためにはお金もかかるから…」と答え、問題になったことがありました。
確かにそういう現実的側面があることは事実ですが、それでは布施の肝心な側面が完全に欠落してしまいます。布施は六波羅蜜の第一にも挙げられるように、布施する本人にとって重要な意味があるわけです。
件の人物は、長年、教団の渉外や実務に携わってきた人物で、信者指導や宗教的な分野にはほとんど経験がありませんでしたので、価値観や思考回路もかなり世俗化していたようです(また、もともと世俗的な感覚や能力があったから、そういう分野で用いられたのでしょうが)。そういう意味では例外的なのでしょうが、それにしても宗教団体の中にさえ、そういう人がいるのですから、まして宗教に関わっていない人においてはなおさらでしょう。
「布施」「献金」等の意義については、各宗教の間に違いがあるのですが、如何においては、仏教における布施の意義を中心として考えてみたいと思います。
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