古今宗教研究所 > 莫令傷心神 > 宗教と信心

前頁へ  目次へ  次頁へ

信心に関わる諸問題

布施について(4)−2


布施の目的(下)

大乗仏教では、さらに明確に布施の実践が重要な意味を持っています。

例えば、菩薩が涅槃に至るために実践するべき行である六波羅蜜では、筆頭に布施が挙げられています。六波羅蜜とは布施波羅蜜・持戒波羅蜜・忍辱波羅蜜・精進波羅蜜・禅定波羅蜜・智慧(般若)波羅蜜の六つです。

因みに、仏教者の生活法と対人関係のあり方を示す四摂事(四摂法)でも、布施が第一に挙げられています(四摂事=布施・愛語・利行・同事)。

六波羅蜜の目的は涅槃に至る、つまり輪廻から解脱することですから、形の上では同じであっても、善なる果報を求めて行う布施とは異なる内容があるはずです。そこで注意をするべきなのが「波羅蜜」という言葉です。

波羅蜜とはサンスクリット語の「パーラミター」の音写で、「波羅蜜多」ともいいます。「完全な」とか「完成する」という意味があり、「度」「到彼岸(彼岸に到達する)」と意訳されます。
つまり「布施波羅蜜」とは「完全な布施」とか「布施の完成」という意味になるわけです。

※補足:宮坂宥洪師の『真釈 般若心経』(角川書店)によれば、「般若波羅蜜多」とは「智慧の完成」と訳せるのですが、厳密には「智慧を完成させること」ではなく、「智慧という完成」という意味になるそうです。つまり「智慧の完成を目指す」のではなく、「完成された智慧」による生き方・実践(具体的には残りの五つの波羅蜜)そのものが修行だということになるでしょう。
これを敷衍すれば、「布施波羅蜜」も、「布施の完成を目指す修行」ではなく、「完成された布施」「完全な布施」という修行の意味になります。

それでは、「完全な布施」「布施の完成」とはいったいどういうものでしょうか。これについては「三輪清浄」の布施ということがいわれます。布施を与える人(能施)と受け取る人(所施)、与えるもの(施物)の三つが清らかで、滞りがあってはいけないということです。

簡単に言えば、「自分があの人にこういうことをしてやったのだ」などというのでは、布施波羅蜜にはならないということです。当然、現世の御利益であれ、来世の安楽であれ、見返りを求めるような布施ではありません。それどころか「涅槃を求める」ことすら執着とされたりします。

与える側も受ける側も、その時その場において布施が必要だから行うのであって、形の上でも心の中でもごく当たり前に行われるということでしょう。そこには、一切の「はからい」がないわけです。

例えば、電車の中で席を譲るのは「無財の七施」の一つである「床座施」に当たります。
これを実践する時、普通は周囲の目を気にしたり、自分自身の心の中にさまざまな思いが湧いたりするものです(譲ってあげる、というような思いも含めて)。これでは布施波羅蜜とはいえないということになります。また、譲られたほうが遠慮したり、わだかまりを持ったりしても同様です。

非常に難しいことですが、座席を必要とする人が乗ってきたら、何を思う暇もなく自然と席を譲り、譲られた側もこだわり・わだかまりなく感謝して座るというのが、布施波羅蜜だといえるでしょう。

このような「完全な布施=布施波羅蜜」は、実際には非常に難しいことですが、これを目指していくことが、現世に生きる我々にとっての六波羅蜜の実践ではないでしょうか。

では、このような布施は何を目的としているのでしょうか。もちろん究極的には「仏になるため」ではありますが、布施をしたから悟りを開くことができるなどというものではないでしょう。

弘法大師の言葉に「無始の慳貪を調伏し、および有情を利益せんと欲うが故に、まさに布施を行ずべし」とあります。
「無始」とは遙かな昔、いくら遡っても始まりがわからない状態のこと、慳貪とは貪り、物惜しみのことです。
つまり、貪り・物惜しみの心を制するために布施を行じなさいとおっしゃっているのです。

仏教では「貪(貪り)・瞋(いかり)・癡(おろかさ)」の三大煩悩を三毒と呼び、人間の苦の原因と見なします。この煩悩、さらにその奥底にある渇愛(激しい欲望・執着)を制することができれば、苦を滅することができるわけです。

ですから、六波羅蜜における布施は、布施することによって、外から何かの果報をいただこうというものではありません。自分の煩悩(特に貪欲)を制する、つまり自分自身が変わることを目的とするわけです。

自分が変わっていくための修行として布施を行うのであれば、お布施をしたのに御利益がなかったなどという不満は出ようがありません。
しかも、自分が変われば必ず自分をとりまく境遇が変わりますし、そもそも「苦を滅する」ために行じているのですから、必要な時間の長短はあっても、必ず形としての結果も現れるわけです。

先に挙げた、布施の功徳を説かれた釈尊の言葉にも「それ故に、もの惜しみの心を制して、汚れに打ち克って、施し与えることをなせ。」とありました。

このような観点から考えてみると、単に善い果報を得たいという動機から行う布施にも、隠れた要素があるかも知れません。そういう布施に現世利益があった場合も、本人が気付かなくても、実はその人の貪り・物惜しみの心が抑えられたからかもしれないのです。

一方、周りから見れば、よくそこまでやるというほどお布施をしながら、願いが叶わないというような人もたくさんいます。そういった人の中には、以前、お布施をしたら御利益があったという体験を持っている人が結構いるものです。

思うに、そういう人は、最初の頃は余分なことを考えずに布施していたものが、布施によって御利益があるという体験をすることで、だんだん一種の取引みたいな感覚になってしまい、布施をしながらも貪欲の調伏にはつながっていないのではないでしょうか。

いくらお布施をしても結果が出ないという人は、もう一度、お布施のあり方を考えてみるべきではないかと思います。

お布施をすること自体に躊躇がないということは、一般の人とは異なる心の次元にいるということですし、せっかく既に大きな善行も積んでいるわけですから、心の持ち方を少し変えるだけで、大きな果報を得るはずです。

つまり、そういう人はもう一段上のレベルに飛躍しなければならない段階にいるのだと思います。
やはり、いずれは見返り・果報を目的とする布施から、自分自身が変わっていくための布施にレベルアップしていくべきですし、また、そのほうが自分にとっも得になると思うのです。

とはいえ、御利益を願ってする布施についても、決して軽視するべきではないと考えます。

人間、誰もが最初から「自分の煩悩をコントロールしたい」などという動機で布施ができるわけではありません。まずは御利益信仰的なものであっても、布施をすることが自分のためになるという実感を持つところから始めたほうがよいのではないでしょうか。

また、煩悩自体、自己の生存を維持しようとする本能が過剰になったようなものです。貪りや物惜しみの心も、確実に自分を守りたいという欲求から生じるものです。
ですから、布施することで自分にメリットがあるということがわかれば、貪りや物惜しみの心に振り回されなくなり、布施に対する抵抗もなくなります。

六波羅蜜の実践としての布施など、一見、まったく自分にはなんのメリットもないようなものです。しかし、それが必ず自分のためになるという確信があればこそ、淡々と実践できるようになるのではないでしょうか。

善い果報・見返りを求めないというのではなく、それにこだわらなくなるのだと言ってもよいでしょう。

逆に、現世利益を軽視したり白眼視する風潮は、金儲けを目的とした宗教もどきの団体やカルト集団から、上手く献金をむしり取られる温床になりかねません。偽救世主やインチキ教祖にとって、これほど都合のいい話はありませんし、事実、そういうことは現実にたくさん起こっています。

正しい布施をしていれば、必ず善い果報があるはずで、単に自分が犠牲になるだけ、苦労をするだけというのであれば、必ずどこかに間違いがあるはずです。

道元禅師の言葉を選び抜いてまとめられた『修証義』には「然あれば則ち一句一偈の法をも布施すべし、此生佗生の善種となる、一銭一草の財をも布施すべし、此世佗世の善根を兆す(一句、一偈の正しい教えでも〈法施〉、一銭一草の財産でも〈財施〉布施すべきである。それは現世と来世において善い果報を受ける善い原因となり、善い行いとなる)」とあります。

ですから、「善因善果(楽果)・悪因悪果(苦果)の因果応報の法則に従った、善行を積んで善い果報を得ることを目的とする布施」を基盤として、「貪り・物惜しみの心を抑え、自分が仏に近づいていくことを目的とする布施」にレベルアップしていくというのが望ましいあり方だと思うのです。

次へ

前頁へ 目次へ 次頁へ


2004.02.29
改訂:2004.12.19
古今宗教研究所
Copyright(C) 1998-2016 Murakami Tetsuki. All rights reserved.