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信心に関わる諸問題

布施について(5)−1


布施の強制(上)

さて、ここで財施の強制や強要について考えてみたいと思います。言うまでもなく、この場合の財施とは、「広く施す」という本来の布施としての財施ではなく、教団や宗教家に対する献金としての財施です。

私は、先にも書いた通り、教団あるいは宗教者の生活や活動の維持のため、教団の側から法施の対価として財施を求めるのはやむを得ないと考えています(もちろん、本来は双方の自発的な財法二施の関係が望ましいのですが)。
これは、宗教に対してよほど高い理想を求めている人でない限り、ある程度認められることだと思います。

ただし、それはあくまで常識的な金額の範囲であって、どの程度が「常識的」かということは人によって違うでしょうが、少なくとも生活に影響を与えない程度ということになるでしょう。

しかし、宗教の世界においては、常識の範疇を越えたといわれても仕方がないような財施がしばしば行われます。それこそ家・土地全部を捧げるということさえ、特に珍しい例とは言えません。

例えば私の知人の曾祖父は、親族の大反対を押し切って、広大な所有地をすべて本願寺(確か西だったと記憶しています)に献納したのだそうです。そのため、今でも子孫が本願寺に行けば特別扱いを受けるという話です。
あるいは、別の知人の曾祖父は、これも広大な屋敷や田畑・山をすべて捧げて、天理教の教会を開設しています。

とはいえ、これらは本人が自発的にしたものであり、教団の側に問題はありません。周囲は変人と見なすかも知れませんが、美談だと思う人もいるでしょう(私は美談として受け取ります)。問題になるのは、教団や宗教家が法外な財施を強制した場合です。

統一教会の霊感商法や法の華三法行などのように、外部の人や信者と未信者の境界上の人を対象にすると、詐欺事件として表沙汰になりやすく、社会問題として取り上げられることも多くなります。しかし、完全に信者になった人を対象とする法外な財施の要求は表に表れにくく、統一教会のようによほど無法なことをしていてさえ、一般にはほとんど知られることはありません。

私の身近にも、そういう法外な財施の後遺症で苦労している人が何人もおり、心の痛む話も聞いています。

あるいは、財施をした本人も大変ですが、財施をさせた人(元締めではなく、中間幹部あるいは先輩信者として)はさらに大変です。熱心に信じていたときは善いことだと思ってしたことが、ふと我に返ると、取り返しがつかないことだったという場合があるわけです。本当に痛ましいことです。

そういうわけで、当然ながら私は財施の強制、強要は望ましくないことだと思っています。

しかし、財施の強制や強要が悪い結果ばかりにつながるかというと、必ずしもそうではなく、かえってよい結果をもたらすことも珍しくはありません。ここが難しいところですが、だからこそ熱心な信者は、相手にとって善いことだと確信して、財施をするよう説得することができるわけです。

私の周囲でも、本人も葛藤した末に説得に応じて多額の財施をし、結果的によい結果になった、人生が好転したという人は少なくありません。過去の財施の後遺症で苦しんでいる人の中にさえ、財施それ自体はよかったと思っているケースも数多くあります。
それこそ、それによって夫婦仲が破綻せずにすんだとか、親子関係がよくなったという実感を持っている人さえ少なくありません。

そのため、私としては財施の強制や強要は望ましくないことだと思いますが、すべきかすべきでないかと悩んでいる人に対して、単純に「断れ」とアドバイスすることはできなくなりました。

問題を起こさないということを中心に考えれば、断ればいいというだけのことですが、それによって人生を好転させる可能性を見逃す可能性もあるわけです。
信仰する人というのは、たいてい現状からの脱皮を求めています。そういう人に対して、問題が起きないということだけを中心にアドバイスするのは、本来の目的からはずれるように思うのです。

それではどう対処すればよいのかということで、この財施の強制、強要という問題について、整理してみたいと思うわけです。

先に、布施本来の目的は「貪り・物惜しみの心を抑え、自分が仏に近づいていくこと」であると説明しました。同時に、その前段階として「善い果報を得ることを目的とする布施」があるとしました。

しかし、突き詰めて考えてみれば、この二つはとらえ方の違いであって、自分の心の作用という点から考えれば、「貪り・物惜しみの心」すなわち「執着」を押さえて「善い果報を得る」ことができると見ることができます。

ごく端的に言えば、人生の「苦」の原因は「執着」にあるといえます。「貪り・物惜しみ」も執着の一種です。
同じ現象に遭遇しても、「執着」の程度や内容によって、苦しみになったりならなかったり、あるいは苦しみの感じ方や内容が違ったりするわけです。

補足:厳密に言うと、仏教における「苦」は、一般に考えられている「苦痛」とは違います。サンスクリット語の「ドゥッカ」という語の訳なのですが、これは「思い通りにならない」という意味です。思い通りにならないため、苦しみ・悩みとなるわけです。言いかえれば、「思い通り」=「執着」といえるでしょう。

とはいえ、実際の人生や社会は「執着」があることによって成立しているともいえます。「執着」がなくなれば、個人においても社会においても進歩発展がなくなるどころか、存在を維持することすら難しくなります。
しかし、その執着をコントロールすることができず、振り回されているために、さまざまな悩み・苦しみが生じたり、問題が起こったりします。

布施するというのは、そういう執着を抑える、あるいは執着の一部を断ち切るということになります。故に、問題が解決したり、善いことがあったりということが起こりうるわけです。
自分の限界を超えた財施というのは、その程度の大きいものですから、それこそ御利益があったり、人生が好転したり、新しい人生観が開けたりということがあっても、何ら不思議なことはありません。

そこに気がついて、自らの意志で財施をするというのが望ましいのですが、通常、執着している人は自分の執着になど気づかないものですし、それが当たり前と思っているので、まず自分の限界を超えるような財施をしようと思いつくことはありません。そこで、布施の強制や強要にも意味が出てくるわけです。

ある意味で、効果からすれば、病気の自覚のない人を強制入院させて治療を受けさせるようなものと言えるでしょう(ただ、財施の場合、本当に本人のことを考えているのか、財施が目的かという本質的な問題があることは言うまでもありません)。

これについて、紫雲荘の橋本徹馬師の著書でだったと記憶していますが、夫は肺に穴が開いていて明日をも知れぬ身、米びつには一日分の米しか残っていないという家庭で、「お運び・お尽くし」だと言って、その最後の米まで持っていったという天理教の布教師の話が紹介されています。翌日、その布教師が訪れると、夫の病気が治っていたというのです。

私の身近には、それほど極端な例はありませんが、説得されて無理をして財施して、それによって家族関係が善くなったとか、子どもの問題が解決したとか、恨み辛みしかなかった人生が、生きていて善かったと感謝できるようになったという話はいろいろ聞いています。

中には、財施するという話を聞いたときには大丈夫だろうかと思うような人でさえ、実際にした後は喜んでいたり、よい結果が出たりということがあります。そういう結果があり得ることを考えると、じっくりと話をしない限り、単純に反対はできません。

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2004.12.21
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