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信心に関わる諸問題

布施について(4)−1


布施の目的(上)

ここからは、宗教者・教団への財施に限らず、「広く施す」という本来の意味での布施について考えていきたいと思います。

布施の目的というと、一般的には功徳を積むことにより現世の幸福や来世の安楽を願っていることが多いと思われます。具体的な願い事や問題の解決など、現世利益を願って行う布施もこれに含んでよいでしょう。

布施に限らず、在俗信者が宗教的な動機で行う善行は、善行に対する見返りへの期待があることは否定できません。これは現実に生きる人間として自然なことです。
それを大きくまとめれば、「現世安穏、後生極楽」というように、現世の幸福と来世における安楽ということになります。

善因善果・悪因悪果(厳密には善因楽果・悪因苦果)という因果応報の法則は、仏典中にも随所で説かれています。何をもって善悪とするかということを検討が必要ですが、因果応報の法則は仏教とか宗教とかという以前の自明の法則です。

善い果報を願うならば、そのための善い原因を作らなければなりません。それを目的として布施をするというのは、実に道理に適ったことと言えるでしょう。

サンユッタ・ニカーヤ(相応部経典)には、布施の功徳について次のような釈尊の言葉があります。

「清らかに澄んだ心で、信仰心をもて食物を与える人々は
この世でも、かの世でも、その食物が順(したが)ってゆく。
それ故に、物惜しみの心を制して、汚れに打ち克って、
施しのものを与えよ。
功徳は、来世において、生あるものどものよりどころとなる」
(相応部経典2-33『セーリー』、同1-53『食物』も同趣旨)

「この世でもの惜しみし、吝嗇で、乞う者を罵り退け、
他人が与えようとするのを妨げる人々、
−−かれらは、地獄、畜生の胎内、
ヤマ(閻魔)の世界に生まれる。
もしも人間の状態になっても、貧窮の家に生まれる。
そこでは、衣服、食物、快楽、遊戯を得ることが難しい。
愚者たちは、それを来世で得ようと望むが、
彼らにはそれが得られない。
現世ではこの報いがあり、死後には悪いところに堕ちる」
「この世で、人たる身を得て、気前よくわかち与え、
もの惜しみをしない人々が、
ブッダと真理の教えとに対して信仰心あり、
修行者の集いに対して熱烈な尊敬心を持っているならば、
彼らは天界に生まれて、そこで輝く。
もしも人間の状態になっても、富貴な家に生まれる。
そこでは、衣服、食物、快楽、遊戯が労せずして手に入る。
また〔来世には〕他人の蓄えた財物を、
他化自在天のように、喜び楽しむ。
現世ではこの報いがあり、死後には善いところに生まれる」
(相応部経典1-59『もの惜しみ』)

(以上、中村元訳『ブッダ神々との対話』岩波書店より)

これを見れば、釈尊が現世と来世における善い果報を願って善行を積むことを目的とする布施を積極的に認めていたことは間違いないといえるでしょう。

しかし、仏教本来の目的ということから考えると、このような善い果報を目的とする布施は「仏教以前の段階」というべきものです。
といっても、そのような布施が間違っているという意味ではなく、それを自明の前提としてとして、さらに上の段階を扱っているという意味です。

これについて、例えば「次第説法」というものがあります。釈尊が新しい人に教えを説くに当たり、相手が受け入れやすいように、ある決まった順序にしたがって教えを説いたという内容で、以下のようなものです。

「世尊は、彼のために、次第をおうて法を説いた。布施を説き、持戒を説き、生天の法を説き、歓楽のわざわいを説き、出離の功徳を説き、やがて彼にやわらぎの心生じ、世をいとう心生じ、法をよろこぶ心の生じたる時、世尊はさらに、彼のために本真の教えを説いた。すなわち、苦の真理、苦の集起の真理、苦の滅尽の真理、苦の滅尽への道の真理が、それであった」
(律蔵大品一、増谷文雄訳『阿含経典による仏教の根本聖典』より)

「持戒」とは戒律を守ること、「生天の法」とは、天界に生まれる法、すなわち来世において安楽な世界に生まれる方法ということで、本真の教えとして挙げられているのは、仏教における実践の体系である「四諦」です。

また、相応部経典には、サトゥッラパ群神がそれぞれ布施の功徳についての詩を唱え、釈尊にどの詩がもっとも勝れているか尋ねる場面があります。釈尊は次のように答えておられます。

「信仰を持って〈与えること〉が
実にいろいろと 讃め称えられた。
しかし〈与えること〉よりも
『法の句』のほうがすぐれている。
昔の善き人々、それよりもさらに昔の善き人々も
知恵を備えて、ニルヴァーナにおもむいた」
(相応部経典1-43『善いことだ』、中村元訳前掲書)

問題を整理するために、仏教は本来、何を目的としているかということを検討しておきましょう。

釈尊が生まれた当時から現代に至るまで、インドの宗教が目指す究極的な目的は輪廻からの解脱です。当然、仏教もこの流れの中にあります。
ただ、解脱がどのようなものか、また、それをいかにして実現するかというところに大きな違いがあり、仏教においては四諦・八正道・十二因縁といった内容になるということです。仏教において解脱は「涅槃」ともされ、苦が滅した状態とされます。彼岸に渡るとも表現されます。

とはいえ、在俗の生活での解脱はほぼ不可能と考えられていました。そのため一般人においては、せめて善行を積み、来世において安楽な世界、願わくば天界へ生まれたいと願うわけです。<P>  ただし、たとい天界に生まれたとしても、未だ輪廻の中にあるわけですから、苦が滅したというわけではありません。

次第説法で説かれる内容を見れば、このことがよく了解されると思います。つまり、
(1)出離(出家)の功徳までの内容は仏教に限らず、一般的に是認されていた内容だと考えられる、
(2)これらの内容は、否定されているわけではないが、あくまで「本真の教え」を説く前段階である、
(3)つまり、来世において安楽な世界に生まれるというのは、仏教本来の目的ではない、
ということです。

まして、いわゆる御利益として得られる現世の幸福が目的でないことはいうまでもありません。そういったものを捨てて出家することを勧めることからも明らかでしょう。  いずれ必ず失われるものに執着することは苦の原因となるものであり、そこに気づくことが仏教の出発点だとさえいってよいほどです。

それでは、仏教において布施の価値は低くなるのでしょうか。決してそんなことはありません。

相応部経典には次のような釈尊の言葉があります。

「落ち穂を拾って修行している人でも、
妻を養っている人でも、
乏しき中からわかち与える人は、
法を実践することになるであろう」
(相応部経典1-42『もの惜しみ』、中村元訳前掲書)

ここで「落ち穂を拾って修行する人」「妻を養っている人」というのは、それぞれ出家修行者・在家者を指すようです。
つまり、在家信者のみならず、出家修行者にとっても「わかち与えること」が「法を実践すること」だとされているわけです。

輪廻からの解脱を目指す出家修行者にとっても「法を実践すること」になるという布施ですから、現世利益や来世の安楽を目的とするものとは考えられません。

では、何を目的としているのでしょうか。もう少し検討してみましょう。

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2004.02.29
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