釈尊の世界観
実際に六十二見を見れば、それが単純に「当時のさまざまな思想を六十二に整理したもの」とはいえないことがよくわかるででしょう。
未来に関する見解のうちの有想論・無想論・非有想非無想論については、常住の我を認めた上で、死後の有想(意識作用がある)・無想(意識作用がない)・非有想非無想(意識作用があるのでもないのでもない)と、色(物質的な体)の有無(色がある、色がない、色があると同時に色がない、色があるのでもないのでもない)、有限無限(有限である、無限である、有限であると同時に無限である、有限でもなく無限でもない)、さらに有想論の場合は意識作用の種類を組み合わせたものですから、たしかに諸説を列挙したといえるかもしれません。
しかし、例えば永遠論に関する四つの根拠のうち、最後の理論・考量による見解以外は、禅定によって過去世の記憶を思い出すというもので、それがどこまで遡るかの違うだけです。当然、それぞれが唱える説は「我と世界は常住である」ということで違いはないと思われます。
おもしろいのは詭弁論で、最初の三者は、善・不善について明確にはわかっておらず、それを自分でも自覚しています。それで、それぞれ「答えると嘘をついたことになり、それが自分の悩みとなり、障害となるから」「答えると執着が生じ、それが自分の悩みとなり、障害となるから」「他の人から詰問されることを恐れて」言葉を曖昧にするというのです。つまり、それぞれの動機が取り上げられています。
詭弁論の四番目は『沙門果経』に出てくるサンジャヤ・ベーラティプッタの説と同じ内容になっており、それは愚鈍で蒙昧であるためだとされます。つまり、これはサンジャヤを愚鈍で蒙昧だと批判しているということになります。六十二見に対する評価で、これほどあからさまに否定的な言葉を使っているものはほかにありません。
第三者から見るとサンジャヤの判断停止と釈尊の捨置記が似ており、それを仏教の立場からはっきりと区別するために、ことさら否定的に扱う必要があったのかもしれません。
そして、重要な点は、最初にも述べたことですが、これらの諸説が仏教の立場から整理されており、輪廻がその前提になっているということです。
例えば、無因生起論における、アサンニャサッターであった過去世を思い出すという立場を考えてみます。
アサンニャサッターは想いが生じると死んでしまうといいます。ですから、この立場の人がアサンニャサッターであった過去世のみを思い出すと、前世はなかったという認識を持つことになります。そのため、無因生起説をとなえるのであって、当然、アサンニャサッター云々などということを主張するはずがありません(アサンニャサッターであったということを認識していれば、無因生起説を唱えることはできません)。<BR>
つまり、アサンニャサッターに関する説明は、無因生起論者の唱えるところではなく、なぜ彼らが無因生起説を唱えるかということについての釈尊による説明だということです。そして、無因生起は、過去の生存の中の一つしか思い出していないために説かれるものとされます。
これは部分的永遠論におけるブラフマ神、キッダーパドーシカー、マノーパドーシカーに関する説明も同じです。ブラフマ神についての説明でも、釈尊の説明によればブラフマ神自身も無常な存在ということになるので、部分的永遠論ではなくなります。
このような観点から見ると、六十二見の解説を通して、(『梵網経』における)釈尊の世界観が見えてきます。それは、きわめて古代的な世界観です。
無論、これを認めない人(釈尊が現代人=自分と同じ世界観を持っていたと信じたい類の人)は、この経典は後世に成立したものだというでしょう。しかし、長く仏教徒によって釈尊の教えと是認されてきたものであり、これを明確に否定する仏典の文言はなく、他の経典と矛盾しません。<BR>
自分の思想や価値観を釈尊に投影するために、経典のごく一部(例えば無我説など)の恣意的な解釈を極限まで拡大し、それを釈尊の真意だなどとするのは学問的とも信仰的ともいえません。
しかし、さらに重要な問題は、釈尊がこれらの諸説を包括する世界観を持ちながら、それを絶対のものとせず、執着していないというところです。むしろ、執着しないというところが肝心なところで、そのために、釈尊の世界観が現代の世界観と合わなくなっても、教えそのものには何ら影響しないわけです。
その点について、さらに考えてみます。
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