東京都府中市に鎮座する大國魂神社〔おおくにたまじんじゃ〕は、武蔵国の総社〔そうじゃ〕である。府中は古くは武蔵国府の所在地であり、近世は甲州街道の宿場町として栄えた町だが、その中心となったのが大國魂神社である。
武蔵国中の著名な六つの神社の祭神を併せて祀るところから、江戸時代までは「総社六所宮〔そうじゃ・ろくしょぐう〕」「府中六所宮」の名で呼ばれていた。景行天皇41年(西暦111年)の創祀と伝えられる都内屈指の古社である。
御祭神は大国魂大神〔おおくにたまのおおかみ〕。武蔵国の国魂神〔くにたまがみ〕(古代には国そのものに霊魂があると信じられ、国土を神格化して国魂神といった。その土地の開拓や発展、守護は国魂神のおかげであると考えられていた)であるが、出雲の大国主命〔おおくにぬしのみこと〕と同一の神とされる。
本殿は一棟三殿の流造りで、中殿に大国魂大神・国内諸神・御霊大神〔ごりょうのおおかみ〕、東殿に小野大神〔おののおおかみ〕(東京都多摩市の小野神社)・小河大神〔おがわのおおかみ〕(東京都あきる野市の二宮神社)・氷川大神〔ひかわのおおかみ〕(埼玉県さいたま市の氷川神社)、西殿に秩父大神〔ちちぶのおおかみ〕(埼玉県秩父市の秩父神社)・金佐奈大神〔かなさなのおおかみ〕(埼玉県児玉郡神川町の金鑚神社〔かなさなじんじゃ〕)・杉山大神〔すぎやまのおおかみ〕(横浜市緑区の杉山神社)を祀っている。
当初は国造〔くにのみやつこ〕が奉仕していたが、後に武蔵の国府がこの地に置かれたことにより、国司が奉仕するようになった。平安時代になると、各国で国司が奉幣・参拝の便宜を図り、管内の諸社を国衙〔こくが〕の近くに勧請するようになった。これを総社というが、武蔵国の場合は大國魂神社が総社にあてられた。
さらにその後、国衙の中に国内の六つの神社を合祀する六所宮が設けられるようになった。武蔵の国では早くから総社と六所宮が一つとなり、「武蔵総社六所宮」と称するようになった。
もともと国府の官社ではあったが、武家からも広く尊崇を集めた。源頼朝は夫人・政子の安産祈願を行い、社殿を造営している。その後、北条氏、足利氏なども篤く崇敬しているが、ことに徳川家康は武蔵総社として崇敬すること極めて篤く、社領500石を寄進し、社殿を造営するなど特別の保護を加えている。
明治元年(1868)、神祇官直支配の準勅祭社〔じゅんちょくさいしゃ〕に列し、明治4年、社号をもとの「大國魂神社」に復した。明治18年(1885)、官幣小社に昇格。
府中の街の中心、旧甲州街道沿いの交通至便の地にあるためか、普段の日でも参拝者が多い。大鳥居から京王線府中駅方面に向かう馬場大門けやき並木は、国の天然記念物である。
5月の例大祭は、俗に府中の「くらやみ祭」として知られ、殷賑を極める。かつては深夜、町中の明かりが消された暗闇の中、一ノ宮から六ノ宮、御本社、御霊宮の八基の神輿が御旅所まで渡御したことからこの名で呼ばれた。
御旅所からの還御の時には町中に明かりがともされ、さながら昼のような中を、勇ましく神社へと戻ったという。
渡御行列は、江戸時代は神領民によって奉仕されていたが、明治以後、府中の町衆に委ねられるようになった。
各地区は競って神輿を豪華なものへと改修・新調した。さらに先払いの太鼓を巨大化させた結果、直径2m前後の太鼓が並び、渡御行列の見どころの一つになっている。
残念ながら昭和30年代以降、諸般の事情から午後4時に渡御が始まる昼間の祭りになってしまった。しかし、平成14年(2002)より午後6時の出発と改められ、かつての「くらやみ祭」の伝統が取り戻された。
参考:『神社辞典』(白井永二・土岐昌訓、東京堂出版)
武蔵総社大國魂神社略誌(大國魂神社)