さいたま市大宮区高鼻町に鎮座する武蔵国一宮・氷川神社は、旧武蔵国に200社以上ある氷川神社の総本社である。他の氷川神社と区別するために大宮氷川神社と呼ばれることもあるが、そもそも大宮の地名も氷川神社に由来する。
大宮の名に相応しく広大な境内は約3万坪、さらに背後の大宮公園もかつての境内で、明治初期までは約9万坪あったという。参道も中山道沿いの一の鳥居から約2kmに及ぶ(もとは氷川参道が中山道であったという)。
御祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の三柱で、現在は一つの社殿に祀られているが、これは明治以降のことで、それ以前は男体社(須佐之男命)・女体社(稲田姫命)・簸王子社〔ひおうじしゃ〕(大己貴命)の三つの社殿に祀られていた。ただし、古記録では祭神に諸説ある。
創建は、社伝によれば孝昭天皇3年(紀元前473年)で、出雲国簸川郡の杵築大社(出雲大社)から勧請したとされ、氷川の名も斐伊川(簸川)に因むといわれる(かつて、斐伊川は杵築大社のあたりで日本海に注いでいた)。
成務天皇の御代には出雲臣に連なる兄多毛比命〔えたもひのみこと〕が无邪志国造〔むさしのくにのみやつこ〕(後の武蔵国造)となり、氷川神社を篤く崇敬したという。
氷川神社のある場所は、旧大宮市から旧浦和市にかけて広がっていた見沼〔みぬま〕の畔の台地であった(見沼は徳川吉宗の命によって干拓され、広大な見沼田圃〔みぬまたんぼ〕となった)。現在、境内にある神池は見沼の名残である。
かつての見沼の畔には、高鼻の氷川神社と中川の氷川神社(見沼区中川の中山神社)、三室の氷川女体神社(緑区三室)が一直線上に並ぶ。一説によれば、高鼻の氷川神社が男体社、三室の氷川女体神社が女体社、中川の氷川神社が簸(氷)王子社で、その総称が氷川神社であったともいう。
なおネット上では、大宮の氷川神社にあった男体社・女体社・簸王子社と、氷川神社・氷川女体神社・中山神を混同する記述が見られるのが、誤りである。
延喜式神名帳では氷川神社は一座となっている。三座になった経緯は不詳で、熊野修験との関係も指摘されるが、熊野が三所だから単純に氷川もそれに倣ったというのは考えにくい。
あるいは、もともと高鼻に須佐之男命(もしくは父神)、三室に稲田姫命(もしくは母神)、中川に大己貴命(もしくは子神)を祀られており(もしくは、そう認識されるようになり)、熊野三山のようにそれぞれが他の二社の御祭神も祀るようになったのかも知れない(三社の内、氷川神社のみが延喜式神名帳に掲載されたとも考えられる。因みに熊野でも熊野那智大社は式外社である)。高鼻の氷川神社は規模が大きいため、三神それぞれに社殿を建てて祀り、規模の小さな三室と中川では一社殿に祀られたとも考えられる。
その当否はともかくとして、氷川の神が見沼と深く関わる神であったことは間違いない。
また、所沢市の中氷川神社(式内社)や西多摩郡奥多摩町の奥氷川神社では、大宮の氷川神社を合わせて「武蔵三氷川」と称する。この三社もほぼ一直線に並んでおり、本宮−中宮−奥宮の関係にあるともいう。一説には、当初、兄多毛比命は奥多摩の愛宕山を出雲の日御碕神社の隠ヶ丘に見立て、奥氷川神社の地に素盞嗚尊を奉斎したが、後、中氷川神社を経て大宮の氷川神社へ遷したとする。
天平神護2年(766)神封3戸を寄進される。延喜式では名神大社に列せられ、月次・新嘗の官幣に預かった。神階は天安3年(859)に従五位上、貞観5年(863)正五位下、同7年(865)従四位下、同11年(869)正四位下、元慶2年(878)正四位上に叙せられ、土御門天皇の御代(1198〜1210)正一位に極位したとされる。
武家の尊崇も篤く、治承4年(1180)源頼朝が土肥実平に命じて社殿を再建。執権北条氏や小田原の後北条氏も篤く崇敬した。天正19年(1591)徳川家康は社領100石を寄進、さらに慶長9年(1604)には200石を追加し、合わせて300石となった。
さて、社伝によれば、氷川神社が武蔵国一宮に定められたのは聖武天皇の御代という。しかし、これにはいささか問題がある。
まず現在、一宮制度の存在が確認できるのは12世紀以降であり、平安時代後期より古くは遡らないと考えられている。
しかも武蔵国の場合、『神道集』など南北朝時代までの資料では、一宮は多摩郡の小野神社(東京都多摩市の小野神社)とされ、氷川神社は三宮とされている。現在でも、武蔵の総社・六所宮である府中市の大国魂神社では一之宮に小野大神、三之宮に氷川大神が祀られている。因みに二之宮は小河大神(あきる野市の二宮神社)、四之宮は秩父大神(秩父市の秩父神社)、五之宮は金鑽大神(児玉郡神川町の金鑽神社)、六之宮は杉山大神(横浜市緑区の杉山神社他論社あり)である。
そして室町以降、氷川神社を一宮とする資料が見られるようになる。
地方の神社としては破格の月次・新嘗の官幣に預り、近世から現代に至るまで武蔵国随一の大社であった氷川神社が、式内社とはいえ小社の小野神社や式外社の二宮神社の下位に置かれたというのは不思議である(同じく関東の神社で月次・新嘗の官幣に預かった鹿島神宮・香取神宮・安房神社は順当に一宮となっている)。
これは、一宮制度が従来考えられていたような律令体制の一環としてではなく、律令体制から封建体制に移行する時期に成立したことに関わると考えられる。次第に統治機能を失いつつあった国衙〔こくが〕の機能や勢力を維持・補完する手段の一つとして、一宮制度が成立したのではないかと考えられるのである
武蔵の場合、小野神社は小野氏が氏神として祀り、その後裔は武蔵七党の一つ、横山党として発展した。また、二宮神社は同じく武蔵七党の一つ、西党によって祀られている。彼らは一宮制度が成立した時代に、それぞれ小野牧・小河牧を掌握して勢力を強め、しかも比較的国衙に近かったことから、その氏神である小野神社・小河神社(二宮神社)が格式では遥かに上位の氷川神社を抑えて、一宮・二宮になったのだろう。
しかし、彼らの勢力が衰えるとともに小野神社・二宮神社も次第に衰微し、氷川神社が武蔵国一宮としての地位を確立することになったものと考えられる。
明治元年(1868)東京遷都にあたり、明治天皇は氷川神社を勅祭社と定め、自ら行幸して御神祭なされた。武蔵国の鎮守として、平安京における賀茂社と同様の位置付けがなされたわけである。
同4年(1871)には官幣大社に列す。同15年(1882)社殿を改造し、女体社・簸王子社を廃して、三神を一社殿(元の男体社)に祀るようにした。さらに昭和15年(1940)現在の社殿が竣工した。
特殊神事は多いが、特に12月10日の大湯祭〔だいとうさい〕が有名。十日市と呼ばれ、縁起物の熊手などを売る露店が並び、大勢の参詣客が訪れる。