賀茂別雷神社〔かもわけいかずちじんじゃ〕は、古くは左京区に鎮座する賀茂御祖神社〔かものみおやじんじゃ〕とあわせて「賀茂社」と呼ばれ、賀茂県主〔かものあがたぬし〕によって奉祀されていた。地理的な位置関係から「上賀茂神社」「下鴨神社」と通称される。
社伝によれば、別雷神〔わけいかづちのかみ〕が神社の北北西にある「神山〔こうやま〕」に降臨し、天武天皇の白鳳6年(678)、現在地に社殿が造営されたという。
また、『山城国風土記』逸文によれば、建角身命〔たけつぬみのみこと〕(下鴨神社の御祭神)の娘である玉依姫命〔たまよりひめのみこと〕(同じく下鴨神社の御祭神)が石河の瀬見の小川で丹塗矢〔にぬりや〕を拾い、床の辺に挿し置いていたところ、身ごもって男子を出産した。父親が誰かわからないため、その子が成長するに及んで建角身命は七日七夜の宴を開き、父と思う人にこの酒を飲ませるように言ったところ、天に向かって祭りを行い、屋根を突き破って天に昇った。これが別雷神であるという。
神亀3年(726)には初めて奉幣があり、天平勝宝2年(750)には神領1町歩を充てられるなど、奈良朝以前から中央にも名高い地方の有力社であったが、平安遷都により、皇城鎮護の社として伊勢神宮に次ぐ崇敬を受けるようになった。
長岡京に遷都した延暦3年(784)には従二位、平安遷都の延暦13年(794)に正二位、さらに大同2年(807)には正一位に極位している。
弘仁元年(810)には、嵯峨天皇により、伊勢神宮に準じ有智子〔うちこ〕内親王が「斎院」として奉られた。
古来、宮中では未婚の皇女を神の御杖代〔みつえしろ〕として奉り、祭祀に奉仕させられた。これを「斎王」と称するが、斎王が奉られたのは伊勢神宮と賀茂社だけであり、両者を区別して、それぞれ「斎宮」「斎院」と呼ぶ。
その後、斎院は35代の礼子〔いやこ〕内親王まで約400年間続いた。
葵祭として知られる賀茂祭は、大同元年(806)に勅祭(勅命をもって行う祭)として始められ、弘仁10年(819)に中祀に準じて斎行するよう勅が下された。その賑わいは『源氏物語』などにも描かれている。
『延喜式』では名神大社、月次・相嘗・新嘗の奉幣に預かった。二十二社の制では上七社に列し、さらに山城国一宮として朝野の篤い崇敬を受けた。また、伊勢神宮と同じく20年毎に式年造替が行われた。明治の社家制度廃止まで賀茂一族が奉仕し、神主は正三位まで昇ることができた。
慶応4年(1868)、明治天皇が王政復古報告の行幸をされ、明治4年(1871)、官幣大社に列した。
平成6年(1994)、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
細殿前に円錐形に盛られた砂の山は「立砂〔たてずな〕」といい、神の憑代〔よりしろ〕で、御祭神が降臨した神山を象ったものとされる。
参考:『神社辞典』(白井永二・土岐昌訓、東京堂出版))他