完全無欠な人間はいない(上)
完全無欠な人間はいないということは当たり前のことのようですが、信仰の世界に入ると様相が異なります。生き神様とか救世主とか解脱者とか名前はさまざまですが、たいてい教祖とか教主に当たる人物を完全無欠な存在にしたがる傾向があるからです。完全無欠とまではいかないまでも、一般の人間を超越した特別な人間にする、つまり神格化するのは珍しいことではありません。
人間を神格化するということについては、改めて整理したいですが、ここでは、信仰への疑問が生じたときという観点から考えてみたいと思います。
まず、教祖などを神格化することと信仰に疑問を持つことの関係には、正反対の二つのケースが考えられます。
第一は、神格化されていた人物の隠れていた一面などを見て幻滅し、教え自体にまで疑問を生ずるというケースです。
第二は、教えに疑問を持っているにもかかわらず、教祖などが特別な人物であり、また、確かに特別な存在だと思われる点があるために、自分のほうに問題があるのではないかと思い悩むというケースです。
この二つのケースについて、それぞれ考えてみたいと思いますが、その前に、大前提として、人間は本質的な価値において平等であり、生まれつき一般の人類を超越した特別な価値を持つ人間など存在しないということを改めて確認しておく必要があります。ただ、それぞれ与えられた能力が異なり、果たすべき役割が異なり、それに対して努力してきた内容と程度が異なるということです。
そういう特別な人物は絶対にいないということを証明することは不可能ですから、本来は断定できることではないとも言えますが、現実的には、そう断定しておいて差し支えありません。また、物事を判断する際には、そういう人物はいないという前提から考えたほうが間違いを起こしません。
ですから、普通の人間ではとても及ばない素晴らしい人物というのは実際にいますが、あくまで本人の才能と努力と運(時代や場所なども含めて)によってなったものであって、本質において他の人間と変わるところはありません。霊的覚者とされる人たちも同様でしょう。
人類歴史始まって以来現代に至るまで、選ばれた神の子とか、救世主などという特別な人間として生まれつき、その権能に基づいて他の人を従わせることができる存在であると、万人から認められた人物は未だ現れていません。今後も現れないと断言できるものではありませんが、確率は極めて低いと思われます。
しかし、存在しうるか否かということを云々する以前に、そういう人物がいると期待すること自体が有害であると思います。これは、生きた人間(教祖等)を崇拝するカルト教団の信者を見ればわかることです。
私としては、もし実際にそういう特別な人物が存在したとしても、特別であることを根拠として人を従わせたならば、必ずろくでもない結果に終わるだろうと確信しています(ただ、信仰の問題なので、信じている人に対して、あえて否定して回るべきではないとも考えますが)。
この問題については、いずれ改めて考えてみたいと思いますが、以上のような理由から、生まれつき特別な人間はいないと断定して差し支えない、むしろそのほうが間違いを起こさないと考えるわけです。
もう一点、人間は生きて肉体を持っている以上、完全無欠な存在にはなり得ないということをふまえておくことも重要です。「釈迦も達磨も修行中」と言われますが、そうであるからこそ釈迦の値打ちがあり、達磨の値打ちがあるというほうが適切でしょう(値打ちという言葉は不適切かも知れませんが)。
釈尊は、如来は「施すこと」「教え戒めること」「忍耐すること」「法を説き義を説くこと」「衆生を愛護すること」「正真の道を求めること」の六法において厭きて足ることがない、幸いを求めることにおいて仏にまさるものはないと説かれています。つまり、修行に励むという意味では、我々凡夫以上だということで、このような観点から「修証一如(修行と悟りは別のものではなく、同一である)」ということも理解できるように思われます。
つまり、肉体がある以上、人間はどこまでも不完全な存在であって、問題はその不完全な存在がどのように生きるか、だと考えてよいでしょう。とすれば、先を進んでいるか後に続いているかだけの差だとも言えます。
これもまた、絶対にそういう存在はいないということを証明することは不可能ですが、もはや修行も努力も不要になったということを証明することも不可能です。
むしろ、釈尊の教えを考えれば、「自分は完成したから、これ以上の精進は不要」と考えた時点で、すでに堕落してしまっていると考えられます。ですから、完全無欠な存在はいないと断定して、何ら差し支えがないわけです。
この二つの前提を押さえた上で、先に挙げた二つのケースをそれぞれ考えてみたいと思います。
まず、神格化されていた人物の、知らなかった一面を見て幻滅し、教えそのものにまで疑問が生じた場合について。
そもそも、完全無欠で完成した人間はいないということさえわかっておれば、そもそも出発点からして間違っているのであって、信じた自分にも問題があるというだけのことになります。そういう意味では、相手を責めたり、教えを批判したりする以上に、自分自身を反省したほうが建設的で、有意義です。
教団を維持しようとすれば、教祖・教主などを実際以上に神格化するのはやむを得ない側面があります。本人がしなくても、周囲が勝手に神格化することも珍しくありません。まして最初から信者を集め、教団を作ることを目的としている場合ならなおさらです。
そういう意味では、こういうケースを考える時に、教祖や教主、あるいは教団がどの程度意図的に神格化しているのかということは重要なポイントになります。羊頭狗肉では詐欺と同じです(とはいえ、過剰に神格化されて身動きの不自由な状態になること自体、あまり賢明なこととは思われませんが)。
しかし、そういう神格化された教祖や教主が求められているから、それに応えているという側面があるわけで、求める側の問題も指摘されなければ不公平でしょう。
さらに、幻滅するということは、必ずしも神格化される側が掲げている看板に偽りがあるという場合だけではなく、信じている側が勝手な自分の理想を投影していたというケースもあり得ます。というより、そのほうが多いと思われます。つまり、勝手に期待して、勝手に裏切られたと怒るわけです。
こういうタイプの人は、結局、どこへ行っても同じことを繰り返すわけですが、決して少なくありません。
教団にとっては一番やっかいなタイプの信者ですが、教団を形成・維持するために信者を集めている場合は(当然、その人の徳を慕って、勝手に人が集まってきたという場合は除く)、相手の期待に応えることを前提として教団に帰依させ、会費を取ったり、活動に参加させているわけですから、そういう人の期待に応える義務はあります。
ですから、教団側にも責任なしとは言えませんが、教団を批判したとしても、当人の問題はまったく解決しないわけです。
結局、お互いに相手を責める資格も意味もないわけで、幻滅を感じている人の側から考えれば、自分を省み、考え方を改めたほうが、よほど建設的で有意義だと思われるわけです。
それには、自分自身の価値観を再検討することも含まれます。そうした時に、それまで思いもよらなかった相手の素晴らしさに気づくこともあると思われます。
神格化され、強調されている部分とは別のところに、本当の素晴らしさが隠れていることは少なくありません。もしかすると、そこに気づいていないから、過剰な神格化が行われるのかも知れません。