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信仰で後悔しないために

信仰への疑問が生じたときに(2)


信仰にも相性がある

多くの教団は、自分たちの教えだけが唯一絶対で、他は邪教だと教えたり、他の教えを認めながらも、自分たちの教えが完全・最高で、他は不完全だと教えるたりします。たいていの場合、真に救われたければ自分たちの教えによるしかないとするものです。

信仰に対する疑問を持ったときに悩まされるのがこの点です。その教えが唯一絶対であったり、最高で完全なものだとすると、自分の疑問のほうが間違っていることになります。

実際、教団の中に浸かっていると、確かにその教団が唯一絶対・あるいは最高のものだという教えが正しいよう気になります。さらに、教団の絶対性を確信させるような現象も次々起こります(不思議なことですが、事実、そういうことが起こります)。

やはり信仰をする以上は最高の教えを信じたいと思うものは当然の人情です。また、普通の感覚の持ち主なら、その教えの真価を完全に理解しているなどというおこがましい考え方はできませんから、自分の疑問にも絶対の自信があるわけではないでしょう。そこへ、教団の絶対性を証明するような現象を見せられると、だんだん自分のほうが間違っているのではないかという思いに支配され、気分が沈み込んでいくことも少なくありません。

しかしながら、この世に完璧な宗教・信仰は存在しませんし、まして唯一絶対の教えなどありえません。なぜならば、真理は唯一絶対であっても、宗教・信仰は真理そのものではなく、真理に至るための手がかりに過ぎないからです。まして教団などは、あくまで不完全な人間の集まりであって、絶対性など絶対にありません。

このことは、世の中に自分たちが最高と主張する多くの宗教があって、それぞれ信者を抱えて成り立ち得ているという現実を見ればわかることです。自分たちの教えが唯一絶対だ、あるいは最高で完全なものだ、と思わせられる現象は、どこの教団でも起こっていることで、特別のことではありません。

とはいえ、その宗教が最高であるという主張も間違っているとはいえません。また、他の信仰よりぐれていると主張するのも理由のないことではありません。

新しい宗教というのは、創始者がそれまでの宗教では救われない、あるいは飽き足らない中で、道を求め続けた結果、神と出会い、あるいは安心立命を得ることによって出現するわけです。当然、本人にとってはそれが最高の教えと実践ということになります。そこで救いや安心を得た人々にとっても同様です。その人たちにとっては、自分たちの宗教が間違いなく唯一絶対であり、あるいは最高かつ完全であって、他の宗教は不完全だと言っても、間違いだとは言えません。

ただし、ここで見落としてはいけないのは、あくまで「その人たちにとって」唯一絶対であり、最高で完全だということです。あらゆる人にとって、というわけではありません。

真理は唯一ですが、時代や地域、民族性等によって、具体的に必要とされる内容は異なってきます。また、個々人においても、個性や経歴等、千差万別であり、一律に同じことをしたからといって、同じ結果に至るわけでもありません。

つまり、それぞれの宗教は、創始者や継承者の置かれた時代や地域、また、その個性にとって、神に至る、あるいは真理、救済、悟りに至るためにもっとも適切なものであるわけです。ということは、時代や地域が違い、あるいは個性や経歴が違う人にとっては、必ずしも適切であるとはいえないということになります。この点については、いかなる宗教であっても例外はありません。

例えば、「世界紅卍会」という中国系の教団(「道院」ともいう)がありますが、以前、紅卍会と関わっていたという人と話をした時に、こういうことを言われました。
「紅卍会は確かに素晴らしいけれども、あくまで中国人という徹底的に現実的・実利的な人たちのための教えであって、そのまま日本人が受け取ると、全然別のものになってしまって、おかしなことになってしまう。でも、みんなそれがわかっていない」
それを聞いて、私もなるほどと感心したものです。別の中国系の教団を信仰している人から教えについての疑問点について相談を受けたとき、この話をして、民族性の違いを考慮しないといけないのではないかとアドバイスしたところ、その人も納得していました。どちらも、自分たちの教えが完全で、あらゆる宗教の頂点に立つものと説いている教団です。

実際、世の中には、「がんばれ」と言われて浮上する人もいれば、逆に落ち込む人もいます。力づけるという目的は同じでも、必要な手段は正反対だったりするものです。
「人を見て、法を説け」と言いますが、宗教・信仰という枠があると、どうしても限界が生じるのはやむをえません。

ですから、Aさんにとって最善の宗教と、Bさんにとって最善の宗教が同じであるとは限らないわけです。また、そのためにいろいろな宗教があるのだとも言えるでしょう。

インド三大聖者の一人とされるラーマクリシュナは、偶像崇拝を批判する弟子に向かって、次のように諭しています。

「お前は『土でできた像』のことを言っていた。そうだ、そのような像でも、礼拝する必要はしばしば生まれてくるのだ。神ご自身が、これらさまざまな礼拝形式を授けてくださったのだよ。このようなことは全部、主がなさったのだ−−さまざまの知識の程度にあるさまざまの人に適合するように。
母親は自分の子供たちのために、その一人一人が自分に合う料理を食べることができるように食物を用意するだろう。五人の子供がいるとする。一尾の魚を手に入れたら、彼女はそれからさまざまの料理をつくる。子供たちのおのおのが自分にぴったり合ったご馳走を食べることができるだろう。一人は魚入りの濃厚なピラフをもらうが、彼女は消化力の弱いもう一人の子にはスープを少しやるだけだ。三人目のためにはすっぱいタマリンドのソースをつくり、四人目のためには魚をフライにする、というぐあいに、相手の胃袋に合わせるようにする」
(日本ヴェーダーンタ協会『抜粋 ラーマクリシュナの福音』より)

結局、信仰には相性があって、相性が合わなければ、どんなに優れた宗教を信じても、自分自身にとっては「労多くして功少なし」です。また、それによって人間の価値が変わるわけでもありません。自分には合わないと感じたならば、無理に信仰し続けるようなことせず、自分の適性にあった信仰を求めたほうがよいでしょう。

自分に合った信仰、喜んでやりたいと思える信仰が、一番よい信仰です。そして、一歩でも二歩でも成長することが、自分のためにもなり、また、神仏の御心にも適うことでしょう。

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2003.05.30
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