次に、統一教会の献身者の待遇に関しては、部署や地域、あるいは年代的な差もあるので一概には言えないが、一部の特権階級を除くと、一般社会に比較して劣悪なものであることは間違いないと思われる。ことに、最前線で活動しているメンバーについては、同情すべき点が少なくない。しかし、一般社会でもいろいろあるわけで、統一教会の献身者より大変な人も少なからずいることは忘れるべきではあるまい。
初期の統一教会の貧しさについては、廃品回収やパンの耳をもらって食べていたことなど、ある種の誇りを込めて語られることが多い。しかし、健康保険にも入っていないため、医者にもかかることができず、面倒を見ることができなくなってから実家の門前に置き去りにしてきたなどという非人道的な話も実際にあったと聞いている。
また、朝から晩まで働かされ、最低限の小遣い程度のお金だけをもらっていたとのことで、中味の善し悪しは別として、そういうことをやったという人たちに対しては、ある種の敬意すら覚える(私自身は、そういう非人道的な境遇とはほとんど縁がなかったので)。
こういう傾向は、日本統一教会が宗教的活動から経済活動に主軸を移した70年代の終わりから強くなり、80年代の終わりにある程度是正されたと聞くが、劇的に改善されたわけではない。さらに、そういう境遇にあっても、献金が求められるのであるから、さらに経済的に苦しくなるのは当然である。統一教会に対する怨みが生じるのも、やむを得ないことではある。
しかし、私としてはこれに関しても、一方的に「青春を返せ裁判」の原告が自分を正当化することについては、疑問を感じずにはいられない。
まず、私の知る限り、これらの裁判の原告たちは献身者である。つまり、家庭や職場を捨て、統一教会に身を献げた人たちである。ゆえに「青春を返せ」ということになるのであろうが、私に言わせれば、献身者には献身者の役得があったはずである。
統一教会の信者というのは、当然、献身者ばかりではない。壮年・婦人(壮婦)や勤労青年と呼ばれる、一般社会で生活を営みながら信仰をしている人たち、いわば在家信者も少なくない。そして統一教会には、これらの人々を格下とし、献身者を一種の選民・エリート階級として扱う風潮が厳然としてある。就ける役職や待遇をはじめとして、有形・無形のメリットを享受することができるのである。
個々人による程度差はあるにしても、原理(教義)さえもよく理解していない若造が、ただ献身者だというだけで、社会経験もはるかに豊富な年長者に対して指導する姿さえ珍しくない。
人の上に立ちたいというのは人間の基本的な欲求の一つだと思うが、献身者になれば、知性、能力、人格を磨かなくても、ある程度それを手に入れることができるのである。
次に、どんなに劣悪な環境であったとしても、献身者でいる限り、最低限の生活は保障されていたということも忘れるべきではないということも指摘しておきたい。
統一教会の活動が盛んだった時期は、日本の景気が上昇傾向にあった時代だから、普通の会社勤めをしている人に比べれば、劣悪な生活環境であったことは間違いない。しかし、そういう時代でも、毎日の食に事欠く生活を送っている人もいた。まして外国をことを考えてみれば、いかがなものか。
また、統一教会の献身者の待遇について、一方では上記のように、きつい労働に乏しい報酬という側面もあるが、他方、一般社会に比較して極めて甘い側面もある。
統一教会というのは「神を説く共産主義社会」のようなところがあるので、真面目に働いても報酬が上がるということが滅多にない一方で、怠けても生活が保障されるということもある。とても一般社会では適応できないような生活態度が許され、むしろ甘やかされているのである。
当然、普通の企業では認められないような非効率や公金の無駄遣いも多い。切りつめた生活をしているようで、却って無駄に費やされたお金も多いのではないだろうかというのが正直な感想である。
献身者が稼いだお金もあるとはいえ、献身者に比べてはるかに見返りの少ない(在家)信者(特に経済的見返りはほぼ皆無である)による献金の存在を考えれば、自分たちの損害のみを述べ立てることができるものだろうか、と思われる。
以上のような観点から見て、私は「青春を返せ裁判」なるものについて、批判的にならざるを得ないのである。
そもそも被告となっている統一教会とは、教祖と(幹部と)信者によって構成されている。そして、その大半は、脱会以前の原告と同じ信者である。もし原告を被害者とするならば、教会に残っている信者も被害者である。また、統一教会を加害者とするならば、原告も加害者だったわけである。まして、在家の末端信者に対しては、確実に加害者側の立場に立っていたと言いうる。
「青春を返せ裁判」において統一教会が敗訴し、賠償金を払うということになっても、文教祖や悪徳幹部の懐が痛むわけではない。結局、しわ寄せを受けるのは信者、特に常に一方的な経済的負担を押しつけられている末端の壮年、婦人たち在家信者である。これは、統一教会の中にいた人間なら、わからないはずがない。
つまり、「統一教会」という組織を対象として考えると、原告は一方的な被害者のようであるが、信者という要素を考慮すれば、状況はまったく変わってくる。壮年・婦人などからすれば、原告が教会内にいた時だけではなく、やめて外に出てからも経済的負担等の被害を受けたということもありうるわけである。
入信の際に主体的選択の余地があったかどうかはさておき、確かに信者という立場で統一教会に関わると、ある程度マインドコントロール状態に置かれることは間違いない。特に、情報が極度に限定される末端信者は大変で、そこから抜け出すというのは極めて困難である。ある意味で、非常に好運なことといえる。
逆に言えば、残っている信者というのは、本人の自覚はどうあれ気の毒な人である。やめた人間にとっては、昨日までの自分である。
それを考えれば、抜け出すことができたことで満足してもよさそうなものである。「青春を返せ」などといって、ただでさえ献金、献金で経済的苦境にあえいでいる信者に、さらなる負担をかけるというのはどういうものであろうか。
無論、法外な献金をとられて生活が苦しくなったとか、そのために家族関係に支障を来したとか、前述のごとき特別に非道な仕打ちをうけたというのであれば、それに対して賠償を請求するのは当然である。あるいは、文教祖はじめ、不正蓄財を働いたり、上からほめられたいがために信者に苛斂誅求を課す悪徳幹部を狙い撃ちにするような裁判であれば、それもよかろうと思う。
しかし、献身者として標準的な生活を送ってきたとするならば、同じような立場にある献身者、あるいはそれよりも劣悪な境遇にある信者に経済的負担をかけるような裁判を起こしてよいものだろうか。法律的には認められても、道義的にどうであろうか。
故に私は、このような裁判は評価できないし、まったく恥ずべきことだと考えるのである。