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反社会的カルト考

「青春を返せ裁判」批判(上)


「青春を返せ裁判」とは、元統一教会員(主として献身者)が脱会後、「研修会などを通じて、知らないうちに洗脳教育に引き込まれ、献金や活動で精神的、経済的損害を受け、貴重な青春時代を奪われた」等として、統一教会を訴えている裁判である。

つい最近も(03年10月14日)、最高裁において、北海道の元教会員による「青春を返せ」裁判の判決があり、統一教会側の敗訴が決定したという。

周知の通り、統一教会は社会的問題をたびたび引き起こす「反社会的」教団の代表格であるが、恥ずかしながら、私自身もいわゆる元教会員である(ただし、あくまで第一義的には天地正教の信者であって、その延長線上として統一教会に入教したので、天地正教が統一教会に乗っ取られたのを機に絶縁したのであるが)。

その間、天地正教とはいえ、本山に関わっていたため、統一教会のことについても、比較的内部の情報に接する機会は多かったと思う。組織にとって都合のよい情報だけが伝えられる末端信者と異なり、ある程度内部に入ると、否定的な情報も伝わってくるし、物事の表と裏も見えてくる。
マスコミや反対派の情報のいかがわしさも承知しているが(ことに天地正教については、よくわかっていなかったことは間違いない。霊感商法の延長としてしかとらえていなかったから。統一教会が、それでも曲がりなりに保たれている原因の一つは、反対派による偏った不正確な情報にもあると考える)、それを割り引いても、マスコミは反対派の批判は当然であるし、ある部分では、マスコミや反対派が批判する以上に悪質だと言うべき面もある。

元教会員や現状に批判的な教会員の間では、どこから統一教会がおかしくなっているのかと議論されることがある。文鮮明教祖は間違いなくメシアであるにも関わらず幹部がおかしくしているのか、それとも文教祖自体が悪いのか、ある時点から変質したのか、そもそも出発点から問題があったのか、というようなことである。
この問題に対しては、私はそもそもの初めから文教祖に問題があると考えている(ただし、悪意や野心から始まっているか否かについては断定できない)。 今日の惨状が、文教祖の人となりと教え自体から発していることは間違いない(それは文教祖一家の惨状を見れば明らかである)。

というわけで、私自身の統一教会に対する評価は、上記以外の点も含めて、極めて否定的なのであるが、「青春を返せ裁判」についてだけは、まったく評価することができない、というよりもまったく恥ずべきことだと考えている。

もちろん、統一教会に法律的・道義的責任がないと言っているのではないし、統一教会を擁護しようというわけでもない。統一教会との関係ではなく、一人の人間として、かくのごとき裁判を起こすことは、天(神、仏といってもよいが)に対して、あるいは己自身に対して恥ずべきことではないか、ということである。

まず、統一教会への入信について考えてみよう。
原告たちは「研修会等を通じて、知らない間に洗脳教育に巻き込まれ、信教の自由を侵された云々」としているようだ。つまり、自分の意志で入信したわけではないというのであるが、私には納得できない。

私が、ある統一教会関係者から聞いた話であるが、ビデオセンター等から伝道され、セミナーに参加した人のうち、献身にまで至るのは1パーセントに満たないというデータがあるという。つまり、99パーセント以上は、セミナー・研修会に参加しても、献身に至る前にやめているのである。

私も統一教会の青年部が主催した研修会に参加したことがあるが(天地正教の道場から統一教会のビデオセンターに行くように言われ、半年ほど通ったのだが、そこで研修会に参加するように言われた)、たしかに反対派の書籍や統一教会ネタの潜入ルポ等で描かれているようなものだった。
私自身は他の参加者とは違い、一通りのことを知った上での参加だったので、内容そのものよりも参加者の様子のほうが興味深かったのだが、確かにぎゅうぎゅうに詰め込まれたスケジュールの中で、最初は冷ややかだった連中まで、次第に感動してその気になっていく姿には、よくも悪くも感心したものである。

研修会について、反対派の書籍や潜入ルポで取り上げられるのはここまでで、これをもって統一教会の洗脳教育が過大評価されているように思われる。

しかし、本当の問題はそれ以降にある。二泊三日や三泊四日の研修会での感動など所詮は付け焼き刃で、日常に戻ればたちまち薄れてしまうのである。

確かに、研修会を含む「洗脳教育」がある程度計画的・組織的であり、本人にとって主体的選択の余地がなかったと感じるのはしかたない。しかし、1パーセント以下という数字を考えると、本人の主体的選択が不可能とは考えられない。
人情的に引きずられたのか、教義に惹かれる内容があったのか(特に結婚したくないという願望が強い女性には、その願望を正当化する根拠となるとされている)、そもそも主体性に欠けているのか、入信に至った理由はさまざまであろうが、本人にも原因の一旦はあるはずである。実際、かなり無茶なケースも聞いたが、それはやらせた内容(親をだますとか)の問題で、拒否する人間に強制したという話は寡聞にして聞いたことがない。統一教会に非があることは当然としても、一方的に統一教会の洗脳教育に責任を転嫁するのは卑怯だと思う。

例えば、北朝鮮に拉致された人々のように、暴力的に本人の意志とは反する人生を強制されたわけではないのである。
また、逃げられない環境に置かれていたわけでもない。外部からの脱会工作に対しては神経をとがらせていても、本人が自主的にやめるという場合には、説得以外の手段はなく、実際に、「落ちた」と言われながらも、自主的にやめた人間はいくらでもいる。

極論すれば、統一教会も悪いが、自分も愚かだった、というだけなのである。

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2004.10.31
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