(2)故人に対する冒涜である
確かに「清めの塩」というのは「死」を不浄とする思想によるものでしょう。
そして、「死は不浄なものではない」、「生と死は別のものではない」ということが言われ、死を不浄とするのは死者に対する差別意識だとされるわけです。
まず、「死は不浄ではない」という言葉が簡単に使われていることは、死が身近ではなくなっている現状と無縁ではないように思われます。
私は両親が健在ですし、祖父母の亡くなったときも、伯父・伯母たちが亡くなったときも遺体の処置がすんでからの対面でしたから、普通の人間には耐え難いといわれる場面に立ち会ったことはありません。病院と葬儀屋によって死が取り仕切られる現代においては、そう珍しいことではないと思います。
もちろん、「清めの塩」を問題視している人たちはたいてい僧侶ですから、我々一般人以上に死の現場に対面していることと思います。しかし、一般人の私たちが知っている「死」は、新だ直後か、死に化粧をほどされてから荼毘に付され、お墓に納められるまでの、ある意味で「清められた」部分だけです。そういう「死」に対する箱入り娘状態で、死は不浄ではないというのは簡単なことです。
もし、生と死の間に区別はない、死を不浄と思ってはいけないというのであれば、なぜ遺体に綿を詰めたり、化粧を施したりするのでしょうか。
もし、一切の処置をせず、そのままの恐ろしげな姿の状態で生と死の間には区別がないとするのであれば本物でしょうし、確かに釈尊の教えに忠実であると言えるでしょうが…。
実際には、そんなことはできないでしょうし、やるべきだとも思いません。が、そういう事情を無視して死は不浄ではないなど軽々しく言ったり、それを畏れ忌んだ人々を低級視することは厳に戒められるべきでしょう。
生と死は別ではないといいます。確かにそうでしょう。また、そういう教育が大切だということも間違いないと思います。
しかし、生と死の間には厳然たる違いがあることも事実です。故にこそ葬送の儀礼があり、威儀を正してそこに参加するのではないでしょうか。これを無視して、宗団の教義を教条主義的に掲げるのはいかがなものでしょうか。
そういう心構えを持つことは、宗教・宗派の別なく必要でしょうが、それを誇らしげに掲げることについては疑問があります。それは私にとって、かつて所属した教団においてしばしば見た、自分たちの価値基準を根拠として、自分たちが従来の教団より優れていることを自己満足的に得々と語っている姿を思い出させるものです。
さらに、実際問題として、清めの塩を使うからといって、故人そのものが穢れているなどという意識を持っている人がいるでしょうか。死という厳粛な場に対している人に対し、よくぞそんな見方をすることができるものだと驚かざるをえません。
それこそ、そんな目で見なすこと自体に、迷信や因習にとらわれている(と勝手に決めつけられてしまっている)遺族、あるいは参会者に対する差別意識・優越意識が潜んでいるのではないでしょうか。
そもそも「穢れ」というのは「気枯れ」であって、単なる「汚れ(よごれ)」ではなかったはずです。当然、「不浄」も単なる「汚い」という意味ではありません。自分たちに都合のよい解釈や事実の歪曲によって勝手に価値付けし、他者や古来の伝統を貶め、自らを尊しとするような姿勢には疑問を感じます(それは、カルトとされる教団で自らの正統性を主張する際にとられる手法でもあります)。
「清めの塩」は故人を卑しめることだなどというレベルでとらえるべきものとは思いません。死という厳粛な場面に対する私たちの先祖のさまざまな心情の反映であり、簡単に迷信・因習などと切って捨ててよいものとは思いません。
むしろ、「清めの塩は故人に対する冒涜だ」などということこそ、私たちの先祖の「心」を踏みにじる行為であり、冒涜であると言うべきではないでしょうか。
(3)差別の温床になる迷信・因習である
現代の日本社会において悲しむべき大きな問題の一つは、未だに同和問題が完全に解消されているわけではないということです。多くの人々の努力にもかかわらず、未だ人が人を差別する(しかも出身地で!)などということが存在することは実に許し難いことです。
宗教であろうとなかろうと、差別を許してはなりませんし、新しい差別が発生しないよう細心の注意を払わなければなりません。さて、同和問題の発生において、穢れの観念が重大な役割を果たしたことは事実でしょう。しかし、穢れという観念がそのまま差別になるではありませんし、本来の意義から考えれば、誤った方向に誤用・悪用された結果だというべきです。
そういう意味では、穢れの観念は差別の口実(の一つ)になったと見るほうが正確でしょう。それが時の権力によって利用され、社会制度化された結果が同和問題であり、このようなバカげたことが一日も早く消滅することを願わずにはいられません。
では、なぜ差別が起こるかということを考えると、特定の思想によるのではなく、他者に優越したいという奥深い人間の衝動によるものです。仏教的に言えば「無始からの貪瞋癡」によるということになるでのしょうか。そして、人種・宗教・門地・性別・さまざまな能力その他、あらゆるものがそれに利用されました。そのような自分であることを自覚すること、自らの内にある衝動を自覚することは、差別をなくしていくために極めて重大なことだと思います。
差別が他者に優越したいという衝動に起因するということを認識しておくことが大切なのは、ここを間違うと、差別を批判しながら別の差別を作り出すということが起こりうるからです。そして、「清めの塩」も、意識するとしないとにかかわらず、それに利用されているのではないかという懸念を持たざるを得ないのです。
その理由は、すでに書いてきた内容で十分でしょう。
「清めの塩」が差別の温床だというのであれば、「清めの塩」を問題にしている場面というのは、すでに差別そのものが潜んでいる、新しい差別が始まっている現場になってはいないでしょうか。
端的に言えば、「清めの塩」など、本来はどちらでもいいことでしょう。すでに単なる習俗となっていることで(もしかすると、実は本当に意味があることなのかも知れませんが、確かめようがないことです)、この問題に対して反論している人たちにしてもことさらに取り上げたいような問題ではないと思います。
また、それぞれの考えで「清めの塩」は必要ないと判断し、そうするのであれば、まったく自由なことで、いやがる人はいるかも知れませんが、大半の人は説明するだけですむことでしょう(それでも気になる人は、自分の家の塩を使えばいいだけのことです)。例えば仏滅に結婚式を挙げることに対する程度の反応でしかないのではないでしょうか。
しかし、そんなことをことさらに取り上げ、「釈尊」や「差別」を持ち出すことによって悪者に仕立て上げ、他者にも押しつけ、他宗派・他宗教あるいは先祖伝来の伝統を不必要に貶め、しかも自らの優越感を芬々と漂わせていることに対し、否応なく反論せざるを得なくなっている、つまり不必要な争いを引き起こしているというのが実情ではないかと思われます。
そんな主張や行動によって宗祖・宗団の価値が上がると思っているのだとすれば、社会的批判を浴びているカルト教団の信者とどこが違うのだろうか、と(かつてカルトとして批判されている教団に身を置いていた)私は思います。
…偉大な先人からの遺産と伝統を継承しているか否かの違いだけであって。
追記.最近、妹のお舅さんが亡くなりました。私自身は参列できなかったのですが、いただいた香典返しの書状に、「『清めの塩』や『故人の茶碗を割る』等、故人を卑しめるようなことはしません」というような文言が入っていました。これによれば、日本人(私たち)はこれまで故人を卑しめ続けてきたということになります(!)。
その菩提寺は「清めの塩」の廃止に熱心な僧侶が多い宗派ですが、「故人を卑しめる」などという虚構の価値観によって、他宗派・他宗教を卑しめる書き方になっているのではないでしょうか(そういう意識が見え隠れします)。少なくとも、日本人というものを卑しめていることは間違いありません。
しかも、話を聞くと葬儀の内容もお粗末なもので、説法の中身は能力の問題もあるので仕方がないにしても、焼香が終わる前に住職が読経を切り上げ、退出してしまったというのです。やむなくお姑さんも、住職の接待のために席を立ったため、残された一同は非常に気まずくなったとのことでした(因みに、四十九日の法要でも同じことをしたそうです)。
参列した両親は、あれほど驚かされた葬儀は初めて見たと言いますし、妹は「改宗したい」とまで言い出す始末です(その気持ちはよくわかりますが、私自身は先祖の宗旨を大切にという立場なので…)
それにしても、いったいどちらが故人に対して失礼なのか。いや、生きた人間に対しても失礼ではないのか。
「清めの塩」がどうこうという前に、もっと根本的なところを反省すべきではないのでしょうか…