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古今之諸宗教考察

仏教

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仏教を基本から考える

六十二見(2)


過去に関する十八の根拠

まず、過去に関するさまざまな見解は十八の根拠によるとされます。それぞれのタイトルは片山先生の分類によります。

1.永遠論

※我と世界について、五蘊は我であり、世界であり、常住(永遠不変)であると主張する。

①禅定により、一生ないし数十万生の過去の生存を思い出すという境地を得て、それを根拠として我と世界は常住であると主張する。(1)

②禅定により、破壊と創造の一周期ないし十周期(世界が破壊−空無−創造−維持を一回ないし十回繰り返す期間)の過去の生存を思い出すという境地を得て、それを根拠として我と世界は常住であると主張する。※破壊と創造の一周期は、破壊・空無・創造・維持の期間がそれぞれ1劫で合計4劫。(2)

③禅定により、破壊と創造の十周期ないし四十周期の過去の生存を思い出すという境地を得て、それを根拠として我と世界は常住であると主張する。(3)

④理論・考量を根拠として、我と世界は常住であると主張する。(4)

2.部分的永遠論

※我と世界について、一部分常住(永遠不変)で一部分無常(非永遠)であると主張する。

①禅定により、ブラフマ神殿に生まれた過去世のみを思い出すという境地を得て、それを根拠としてブラフマ神(梵天)は常住だが、ブラフマ神によって創造された存在は無常であると主張する。(5)

世界が破壊すると、生けるもののほとんどが光音天に転生する。その後、この世界が創造されると、空(から)のブラフマ神殿が現れる。すると、ある生けるものが寿命が尽きるか功徳が尽きるかして光音天で死去し、空(から)のブラフマ神殿に生まれ変わる。
彼は長期間、そこで過ごすうちに「他の生けるものもここに来てほしい」という思いが生じる。すると、他の生けるものたちが寿命が尽きるか功徳が尽きるかして光音天で死去し、ブラフマ神殿に生まれかわる。
この時、最初に生まれかわってきたものは「私はブラフマ神であり、創造主であり、全能者である。これらの生けるものは私によって創造されたものだ」と考える。また、後から生まれかわってきたものも「このお方こそブラフマ神であり、創造主であり、全能者である。我々はこのお方によって創造されたのだ」と考える。
最初に生まれかわってきたものはより長命で、より輝きがあり、より力があるが、後から生まれかわってきたものはより短命で、より輝きが劣り、より力に劣るので、先に死んでしまう。
それらのものがこの世界に人間として生まれてきて出家する。そして、禅定によって、ブラフマ神殿での過去の生存のみを思い出し、それ以上は思い出さないという境地を得て、「あのお方はブラフマ神であり、創造主であり、全能者である。我々を創造されたブラフマ神は常住で、永遠にそのまま存在するが、ブラフマ神に創造された我々は無常であり、死すべき存在としてここに来ている」という。

②禅定により、キッダーパドーシカーという神々(「遊びで汚れる者」の意で、楽変化天・他化自在天の神々ともいわれる)であった過去世のみを思い出すという境地を得て、それを根拠としてキッダーパドーシカーであった自分たちは無常だが、それより上位の神々は常住だと主張する。(6)

キッダーパドーシカーという神々は笑いと遊びの快楽にふけっている。長い間快楽にふけっているため、記憶が失われてしまう。記憶を失っているために死んでしまう。
それらのものがこの世界に人間として生まれてきて出家する。そして、禅定によってキッダーパドーシカーであった過去の生存のみを思い出し、それ以上は思い出さないという境地を得て、「キッダーパドーシカーではない上位の神々は、快楽にふけっていないので、記憶が失われていない。だから死ぬことがなく、常住である。しかしキッダーパドーシカーであった我々は、長い間快楽にふけって、記憶が失われている。そのために死んでしまい、無常のものとしてここに来ている」という。

③禅定により、マノーパドーシカーという神々(「心で汚れる者」の意で、四大王天の神々)であった過去世のみを思い出すという境地を得て、それを根拠としてマノーパドーシカーであった自分たちは無常だが、それより上位の神々は常住だと主張する。(7)

マノーパドーシカーという神々は、長い間、互いに嫉妬しあい、心を汚しあって、身も心も疲れている。
彼らがその世界で死んだ後、この世界に人間として生まれてきて出家する。そして、禅定によりマノーパドーシカーであった過去の生存のみを思い出し、それ以上は思い出さないという境地を得て、「マノーパドーシカーではない上位の神々は、互いに嫉妬しあわず、心を汚しあうことがなく、身も心も疲れてはいない。それらの神々は死ぬことがなく、常住であり、永遠そのまま存在するだろう。しかしマノーパドーシカーであった我々は、互いに嫉妬しあい、心を汚しあい、身も心も疲れたので、死んでしまい、無常のものとしてここに来ている」という。

④理論・考量を根拠として、眼・耳・鼻・舌・身などは無常であるが、心・意・識は常住であると主張する。(8)

3.有限無限論

※世界について有限・無限を主張する。

①禅定により、この世界は有限であるという想いをもって住む境地を得て、それを根拠として世界は有限であると主張する。(9)

②禅定により、この世界は無限であるという想いをもって住む境地を得て、それを根拠として世界は無限であると主張する。(10)

③禅定により、この世界は上下は有限であり、横は無限であるという想いをもって住む境地を得て、それを根拠として世界は有限であり、また無限であると主張する。(11)

④理論・考量を根拠として、世界は有限でもなければ、無限でもないと主張する。(12)

4.詭弁論

※言葉を曖昧にして、捉えどころのない議論をする。

①嘘を言うことを恐れるために、言葉を曖昧にし、明確な回答をしない。(13)

彼は、善・不善について明確には知らない。知らないままに答えると、自分にとって偽りとなる。偽りとなるものは、自分にとって悩みとなり、障害になると考える。そのため、嘘を恐れ、言葉を曖昧にして、何が善で何が不善かを明確には答えず、捉えどころのない議論をする。

②自分に執着が生じることを恐れるために、言葉を曖昧にし、明確な回答をしない。(14)

彼は、善・不善について明確には知らない。知らないままに答えると、自分に欲や怒が生じる(自分の説明を聞いた人が他の人にも質問し、そこで他の人が自分の答えを正しいとすると「私ほど正しいものはいない」という欲が生じ、間違っているというと「私はこんなことも知らない」という怒が生じるから)。欲や怒が生じると、自分にとって悩みとなり、障害になると考える。そのため、執着を恐れ、言葉を曖昧にして何が善で何が不善かを明確には答えず、捉えどころのない議論をする。

③他の人から詰問されることを恐れるために、言葉を曖昧にし、明確な回答をしない。(15)

彼は、善・不善について明確には知らない。知らないままに答えると、博学で論争に優れた沙門・バラモンが詰問し、理由を尋ね、間違いを指摘するだろうが、自分はそれに答えられない。そうすると、それは自分にとって悩みとなり、障害になると考える。そのため、詰問を恐れ、言葉を曖昧にして何が善で何が不善かを明確には答えず、捉えどころのない議論をする。

④愚鈍であり、蒙昧であるために、言葉を曖昧にし、捉えどころのない議論をする。(16)

ここで展開される内容は、『沙門果経』のサンジャヤ・ベーラティプッタの説く内容と同じである。

5.無因生起説

※我と世界は原因なく生起すると考える。

①禅定により、アサンニャサッターという神々(「心がなくて生じる色のみの身体のもの」)であった過去世のみを思い出すという境地を得て、それを根拠として我と世界は原因なく生起すると主張する。(17)

アサンニャサッターは色蘊のみで、想いのない存在であり、想いが生じると死んでしまう。彼らがその世界で死んだ後、この世界に人間として生まれて出家する。そして、アサンニャサッターであった過去の生存のみ思い出し、それ以上を思い出さないという境地を得る。ところが、アサンニャサッターには想いがないので、その生存のみを思い出すということは、自分は以前には存在しなかったという認識になる。そのため、自分は以前には存在しなかったが、今は生けるものとして存在しているのだから、我と世界は原因なく生起するのだという。

②推論・考量を根拠として、我と世界は原因なく生起すると主張する。(18)

以上が、過去に関する十八の根拠です。

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2008.07.31
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