古今宗教研究所 > 莫令傷心神 > 宗教と信心

前頁へ  目次へ  次頁へ

信仰で後悔しないために

信仰への疑問が生じたときに(6)


信仰をやめれば不幸になるか

ここでは、「教団を離れる」という意味で「信仰をやめる」という言葉を使います。

しばしば誤解されることですが、信仰をすることと教団に所属することはイコールではありません。しかし、たいていの場合、教団内部では教団をやめることを指して、信仰をやめる、信仰をなくすと言うことが一般的です。
しかし、本当の意味での信仰(個人の内面的な問題として)ということを考えれば、よほどのことがないかぎり、一度信仰をした人間であれば、信仰の対象・あり方が変わったとしても、信仰そのものが失われるということは滅多にないと思います。

さて、私自身が教団の中にいたとき、もっとも嫌だったことの一つは、やめた人が不幸になったという噂話を聞くことでした。これについての反応は、喜んでそういう話をする人と、嫌がる人とに分かれますが、前者の方が多いように思われます。

やめた人が不幸になるということは、自分たちの教団の正しさ・絶対性を保証するものであると同時に、やめた人に対する優越感を持つ快感、脱落者を出さないための牽制など、いろいろな意味があります。

とはいえ、そういう私自身、本当にわがまま勝手に振る舞い、教団を逆恨みしてやめていったような人物が不幸な目に遭うと、自業自得だと思ったりしましたし(今でもそう思うでしょう)、不幸にならなければ理不尽だという感情が起こります。五十歩百歩というか、人間としてある程度やむを得ない愚かな感情でしょう。だからといって、決してよいものではありませんが…。

では、信仰をやめると本当に不幸になるものでしょうか。

これは、不幸になる人もいれば、ならない人もいる、むしろ幸福になる人もいる、信仰をやめることと人間の幸不幸には必ずしも相関関係があるとは言えないというのが厳然たる現実です。

教団の中にいれば、不幸になった人の話ばかり噂になりますから、何となくやめれば不幸になってしまうような気がします。ところが、特に問題の起こらない人や、かえって幸福になった人に対しては、理不尽な例外として意識的・無意識的に話題からはずされるか、いずれ不幸になると期待されているうちに時間が経過して忘れ去られてしまいます。そして、「いずれ不幸になる」という印象だけが残り、やめると不幸になるというイメージ形成の材料として使われるわけです。

とはいえ、やめて不幸に見舞われる人がいるのも事実です。ただし、通常、それが教団をやめたためであるという根拠はありません。たいていの場合、単に不幸と教団をやめたことが勝手に結び合わされているだけです(ただ、そういうことが人間の行動決定の大きな要因になったりするのですが)。

また、教団をやめることによって不幸になるのではないかと心配している人の場合、そういうマイナスの想念が不幸を引き寄せるということは結構あるようです。ただし、この場合は反対もあって、「人を呪わば穴二つ」とも言うように、やめた人が不幸に遭うことを期待している人は、そういうマイナスの想念によって不幸を引き寄せるということもあるようです。

以前、私が教団の機関紙の編集をしていた時に、体験談の取材をした信者さん(焼き肉屋の女将さんでした)からおもしろい話を聞いたことがあります。
このご婦人は、幾つかの教団を遍歴しているおもしろい人でしたが、最初に信仰をしたのは、日蓮法華系の某会だったそうです。そこは布教の過激さで一般にも有名なところですが(最近は昔ほどではないようですが)、「やめれば病気になる、ケガをする、事故に遭う」と脅すことでも知られていました。

このご婦人は、やり始めたら徹底するタイプということで、熱心に折伏もして、地域の責任者にまでなったそうです。ところがその頃、教団がご本尊を模造するという事件が起こり、大問題になりました。彼女も非常に怒って、こんな教団では駄目だと割り切り(非常にさっぱり、きっぱりした性格の人でしたから)、脱会することにしました。
ところが、教団では「やめれば病気になる、ケガをする、事故に遭う」と脅されています。そこで彼女は地域でお世話をしていた人たちを集め、「私はやめるけども、あんた達は残って様子を見てなさい。それで、私が不幸になったら、やめずに続ければいい。でも、不幸にならなければ、こんな教団、さっさとやめてしまいなさい」と言って、やめたそうです。

そして彼女が言うには「おかげで自分は商売も順調で、家庭も円満、よい出会いに恵まれて幸福になった。でも、あそこの人たちは『病気になる、ケガをする、事故に遭う』と言い続けているんですよ。そう言いながら、自分たちこそ病気になったり、ケガをしたり、ひどいもんです…」

問題は、現代では「信仰する」ということが、「教団に所属する」「教団に服従する」ということと同一視されがちであるということです。そのため、本来、教団というのは信仰の手助けをするものであるはずなのに、信仰の主体、信仰対象になってしまっています。そして、一種の権力組織となってしまっているわけです。

こういう場合、「信仰をやめると不幸になる」という脅し文句は、権力維持のために用いられることになります。

しかし、考えてみれば、本来、信仰とは必ずしも教団に所属することを必要とするわけではありません。ただ、自分なりで信仰を深めるというのは、よほど資質があるか、並大抵ではない逆境を通過しなければ難しいことですから、教団に所属することで信仰が成長するということはあります。

ところが、逆に教団が信仰の成長を阻害するケースも少なからずあり、なまじ教団の幹部よりも、仏壇や道端のお地蔵さんに手を合わしているおばあさんの方がよほど信心深いということも珍しくありません。

先の焼き肉屋の女将さんの話に戻りますと、彼女は日蓮法華系の某会をやめた後、先祖供養が大切だと思うようになり、密教系の新宗教である某宗に誘われました。その教団では、1千日間、毎日本山に参拝するという行があり、彼女も通うように言われたそうです。また、一口100万円の先祖供養があると教えられ、この二つだけは先祖のために是非してあげたいと思いました。

ところが、彼女の住まいから京都にある本山に通うにはほとんど一日がかりで、商売に差し支えてしまいます。また、一度に100万円というお金を準備することもできません。

そこで、彼女が考えたのは「本山のご本尊は観音様。うちの裏山の観音堂も観音様。同じ観音様なら、わざわざ京都まで行かなくても、1千日間、裏山の観音様に参拝しよう。そして一日に千円ずつお賽銭を上げれば、1千日で百万円になる。それで、百万円の先祖供養になる」ということでした。
以来、彼女は3年間、毎晩店を閉めた後で、お賽銭の千円札を1枚持って裏山の観音様にお参りし続けました。そして3年後、なんと、かねて念願だったけれども諸般の事情で難しかった自宅と店の改築が、不思議に導かれてトントン拍子で実現したのです。商売も順調で、先祖の導きと信心の功徳を実感したといいます。

こういった信仰のあり方には賛否両論あるでしょうが、私は、幸も不幸も本人の心次第、教団に所属するか否かは信仰の本質にとってさしたる問題ではないということの実例として、非常に感心したのでした。
(しかし、こういう直接教団に関わりのない話は、いくら面白くても、教団への信仰を鼓吹する役には立たず、場合によってはむしろ邪魔になるので、機関紙に掲載されるときにはカットされるわけです)

そもそも、本当の神仏であれば、教団をやめたぐらいのことで不幸にさせようはずがありません。信仰されなくなったからと言って不幸にさせるのであれば、狐や狸、天狗の類でしょう(こういった霊は、きちんと祀れば大きな御利益を与えるが、いい加減に扱えば不幸にさせると聞きます)。

「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてあり」(金光教祖)
この真理がわかれば、「信仰(教団)をやめれば不幸になる」などという脅しに迷い悩む必要はなくなると思うのです。

次へ

前頁へ 目次へ 次頁へ


2003.06.30
古今宗教研究所
Copyright(C) 1998-2018 Murakami Tetsuki. All rights reserved.