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信仰で後悔しないために

信仰への疑問が生じたときに(5)


完全無欠な人間はいない(下)

次に、教えに疑問を持っているにもかかわらず、教祖などが特別な人物であるとされ、また、実際に特別な存在だと思われる点があるために、疑問を持つ自分のほうに問題があるのではないかと思い悩むという場合について考えてみたいと思います。

そもそも「特別な人間はいない」のであれば、難しく考える必要はないはずです。しかし現実には、何か普通の人間とは違う特別なことがあるとしか思われないことが起こるため、なかなか割り切って考えることができなくなります。

自分自身が信じている時なら、思いこみや願望も加わりますから、そう見えても不思議はありません。ところが、教えのみならず、当の教祖・教主などに疑問を抱くようになり、批判的な目で見るようになってからでも、何か特別なのではないかと思われる事態が起こったりするために、ことが難しくなるわけです。

なぜこのようなことが起こるのかということについて、もっともわかりやすい原因は、教祖・教主及びその周囲による情報操作です。つまり、教祖・教主などについての都合の悪い情報は出さず、よい情報ばかり流すことで、都合のよいイメージを作り出すわけです。
これは、必ずしも意図的に行われるとは限りません。はじめからインチキをやるつもりならともかく、たいていの場合、当人たち自身が信じている(あるいは信じたい)わけですから、当然、よいところばかりを見て、悪い部分は意識的・無意識的に排除するようになります。

その外側にいるものにとっては、教祖・教主の周辺部の人たちの願望や思いこみ(場合によってはさまざまな思惑)というフィルターを通して作り上げられた教祖・教主像を見ているわけですから、どうしても情報が偏ります。しかも、たいていの場合、その情報を流している人たち自身が信じ込んでいるわけですから、自ずとそれに影響されるわけです。

情報操作など当然あるものとして、まず疑ってかかるべきではないかと思われるようなものですが、そういう情報の中にどっぷり浸かっていると、本当にそのような気になります。「三人市虎をなす」とか「三人之を疑わしむれば則ち慈母も信ずる能わず」と言うように、複数の人から同じことを聞かされると、本当のことのように思われるようになるものです。まして、今現在疑っているとはいえ、かつては信じていたわけですから、「そうかな…」という気になってもしかたがありません。

私自身、統一教会に対して完全に否定的になり、やめるタイミングを計っていた時でさえ、信者の輪の中に入っていろいろな情報を聞くと、そちらのほうが正しいような気がしてくるという経験を何度もしました。統一教会及び文鮮明氏の問題点が明確になり、自分としての結論をはっきり出していてさえそうですから、まして漠然と疑問を感じているという程度であれば、その場の流れに巻き込まれることは無理からぬことだと言えるでしょう。

そういう経験に基づいて、私は、実際に特別な人間が存在するか否かということを問うよりも、「特別な人間はいない」と断定したほうが、無駄な悩みや迷いを生じずにすむと思うわけです。

静岡県立大学助教授の西田公昭氏は、社会心理学の観点からマインド・コントロールの分析をされていますが、こういう問題について、自分自身の置かれた状況を理解するために非常に役立つと思います。

しかし、これでも整理がつかないのが、実際に思いこみの範疇を超えた能力を見せられたり、現象が起こったりするという事実です。これに関して、現時点で私自身が関わった実例を挙げることに関しては、仮名をつかっても迷惑をかける人がいるため控えますが、本来、能力のあるはずのない人が、偶然と言うには余りにも見事に不思議な能力を発揮することがあります。これは、思いこみや暗示的な誘導というだけでは割り切れません。

また、私が思うに、たとえ怪しげなカルト教団の教祖であっても、(社会心理学的な観点からの)マインド・コントロールだけではなく、実際に偶然や思いこみの範疇を超えた能力や現象があると思います。そうでなければ、身近の人を信じさせることは難しいと思うわけです。

ただし、問題は、その能力や現象が教祖・教主のみに由来するものかどうかというところにあります。

私は、人間の心・想念には現実世界に影響を及ぼす力があるという立場を取ります。また、超感覚的知覚(ESP)といわれる能力についても、潜在的に誰もが持っていると考えます。ただ、通常はそれらを思うように用いることができないわけです。

ところが教団などのように、同一の価値観・方向性を持つ人たちのグループができると、一種の意識共同体のようなものが形成され、ある程度現実に影響を及ぼすようになります。そして、共通の無意識的な願望を、それぞれのレベルに応じて実現するようになるわけです。

そこで教団構成員の共通の無意識的な願望は何かが問題になるわけですが、まず教団及び教主・教祖の絶対性だと見て間違いありません。もちろん、個々人それぞれの願望はあるわけですが、教団や教主が絶対的な存在であれば、個々人の願望の達成が保証される(だろう)ことになります。

教団の絶対性は、たいていの場合、教祖・教主に由来しますから、教団構成員の意識共同体の方向性は教祖・教主に集注します。そして、偶然の範疇を超えて、教祖・教主の絶対性を証明するような現象を起こすと考えられるのです。言ってみれば、教祖・教主と信者の無意識が、共同して教祖・教主の絶対性を演出しているのですが、当人たちですら、そんなことは意識していませんから、すっかり信じ込むわけです。

とはいえ、これは教団構成員の意識共同体の影響力の及ぶ範囲に限られますから、本当に教祖・教主自身に力があるのでなければ、外ではただの人になってしまいます。ただ、教祖・教主は常に教団の中で信者に囲まれているのが普通ですから、そういう現実に直面することは滅多にないと思われます。

また、教団構成員の意識共同体が現実を変えうる能力には、それぞれのレベルに応じた限界があります。例えば、ある程度の軽い病気なら治すことができたとしても、難病の場合は治せないということも当然起こります。
ところが、たいていの場合、意識共同体の目的は、教祖・教主の絶対性を「自分たちが信じていられるようにする」というところにあります。つまり、その時その場において教祖・教主の絶対性を信じることさえできれば(もしくは疑わなくてもよいようにできれば)、例えば病気が完治しなくても、目的を達成したことになるわけです。

私が現世利益を重視すべきだと考える理由の一つがこのためで、そういう点をシビアに見なければ、自分たちの無意識の作用によって、うまく誤魔化されます。自分(たち)の本来の目的が何かを明確にし、それが実現しているかどうかをチェックする必要があると思います。

さて、以上は、教祖・教主がこちらの考えているような能力や内容を備えていないという前提で話を進めてきたわけですが、もちろん、世の中そんな人物ばかりではなく、内実を備えた人もいます。問題は、我々凡人にとって、その真偽を見極めることが極めて困難であるということにあります。

では、如何にすればよいか。

結論を言えば、自分の感覚を信じるしかない、ということです。素晴らしい人というのは、レベルの違いはあれ、世の中にたくさんいます。それに、いかに素晴らしい人であっても、自分と相性が合うか、あるいはそもそも縁があるかというのは別問題です。

かつて、「自分にとって神様のような人はいるけれども、万人にとって神様のような人というのはいない」ということを教えられたことがあります。その時はピンと来ませんでしたが、今では結局それが結論だったとつくづく思います。

「自分にとって神のごとき人」であれば、信じるか否かは100パーセント自分の選択にかかっています。その人に賭けるかどうかは自分の責任ですから、見る目もシビアになるでしょう。また、他人から強制される必要もなければ、他人に強制する必要もありません。

のみならず、一般の人類を超越した特別な人間がいるか否かなどということも問題ではなくなります。その人が自分にとってどういう存在かが重要になるわけで、特別な人間であるかどうかということにはさしたる意味がないからです。

ですから当然、教祖・教主が特別な存在であるという問題のために、その教団をやめるか、留まるかを悩む必要もなくなります。要は、自分がその教祖・教主を師と仰ぐか否かを選択すればよいだけのことです。そのかわり、自己責任ですから、騙されたとか、青春を返せなどということも言えなくなるわけですが。

そして、多くの人がそのように考えるようになれば、自ずと悪質な教団・宗教者も淘汰されていくのではないかという気がするのです。

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2003.06.30
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