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信心に関わる諸問題

布施について(5)−3


布施の強制(下)

第4に、財施の強制や強要において、財施を受ける側の動機は厳しく問われるべきです。

極端な話、財施をする側にとって、もっとも肝心なのは本人の執着心を抑える、あるいは断つということですから、受ける側の動機などはさしたる問題ではありません。しかし、だからといって受ける側の責任が軽減されるわけではありません。

率直に言って、布施の強制や強要において、以下に信者のためと言い、あるいは思っていたとしても、本当のところは出す側のためというよりも、受ける側の都合によっていることが多いと思われます。

前に上げた天理教の布教師の例ではありませんが、たとえ信者のためであっても、生活に響くような布施の強制はショック療法のようなものです。ショック療法が必要なケースがしょっちゅうあるとは考えられません。
また、善くなる可能性もありますが、そうでない場合、それこそ生死に関わる問題になることさえありますし(そこまでいかなくても、家庭崩壊とか、経済的破綻とか)、むしろその可能性のほうが高いわけです。

また、たとえよい結果が出たとしても、実際には出す側の信じる心に依るところが大きいわけです。よい結果が出たことを当たり前と思ったり、自分たちのお蔭だなどと思ってしまうと、後に禍根を残すことになることは間違いありません。

第5に、財施の強制や強要が、恐怖心をあおるような内容と結びついている場合は、断固として拒絶するべきです。例えば、献金しなければ不幸になるというような内容です。

別段、財施しようがしまいが、問題というのは起こりうるわけです。ところが、こういう脅しをする連中というのは、財施を断って不幸があれば、財施をしなかったからと言います。財施をして不幸があれば、大難が小難ですんだとか、財施が足りなかったと言います。財施をして何もなければ御利益があったということになりますが、財施をせずに何もなければ、何か起こるまで脅し続けます。

そうでなくても、「笑う門には福来たる」の反対で、恐怖していると、そういうことが起こりやすくなるものです。つまり、不幸が起こるように誘導しているわけで、およそ宗教者としてあるまじきことです。

補足:「言うことをきかなければ(信じなければ)地獄に堕ちる」などという占い師がいますが、そういう輩こそ間違いなく地獄行きです。そんな占い師を有り難がって大枚をはたくなど、正気の沙汰とは思えません。

実際、良質な宗教者というのは(というか、それが本来当たり前なのですが)、決して相手の恐怖心を引き起こすような言い方はしないものです。

脅しによって財施を強要されたような場合、財施を断るだけではなく、即座にその教団や宗教家とのかかわりを断ったほうがよいでしょう。

以上のようなことを踏まえて、財施の強制・強要についての私の考えを整理すると、やはり、財施を強制したり強要したりすることについては基本的に賛成できません。特に、生活に影響を及ぼすようなものについては、望ましいものとは思いません。

しかし、たとえ強制されたものであっても、本人が納得できるのであれば、それがかえってよい結果を生み出すことも少なくありません。ただし、それは本人の中の執着を抑えるという観点から行われるべきです。

そういう意味で、当人が「この程度ならしても平気かな」と思う額にプラスαする程度の金額ならば、かえって多少強制があってもよいかもしれません。ただし、最終的には充分当人が納得しておかなければなりませんし、本来、自発的であることが望ましいということも言うまでもないことです。

この、自分が出しても平気だという額にプラスαというのは、自発的な財施の時であっても一つの目安になるのではないかと思っています。

生活に影響があるような額、自分としては無理ではないかと思うような高額の財施については、私は望ましいことだとは思いませんが、ショック療法のような効果をもたらすことがあるので、無条件に反対とは言えません。リスクを踏まえた上で、最終的には本人が決断するしかないと思っています(ただし老人と未成年者は別)。

また、財施を受ける側は、財施をした人が恨みや後悔を残さないよう、最後までアフターケアを行う義務があります。個人差があるので、何をどこまでやるべきかということを一概にいうことはできませんが、「出すまでは一生懸命通ってきていたのに、出した後はほったらかしにされている」などということは論外です。

もしきちんとしたケアができないというのであれば、それは信者のためと言いながら、自分たちの都合で信者を金のなる木にしてしまっていると言われてもしかたありません。

財施をする場合は、いくら強制や強要があったとしても、最後に決断するのは自分ですから、後で恨んだり、後悔したりするようなことをするべきではありません。そういう覚悟の上でするべきです。

また、財施した金品がどのように使われたとしても、それが犯罪などに関わっていない限り、一切考えるべきではありません。

布施のポイントは、執着の問題です。布施した金品の行く末を気にするというのは、それを自分のものという延長線上で考えているわけですから、執着を断ったことにはなりません。
布施した以上、自分のものではないので、それを気にするなどということがあってよいはずがないということです。そこを間違えると、布施した意味がなくなってしまいます。

たまにアドバイスを求められることがあるのですが、具体的に立ち入ったことを相談されたとき以外は、「後々、恨みになったり後悔するようになるのであれば、絶対にやめたほうがいい。するのであれば、たとえ思うような結果が出なくても、決断したのは自分だと思って、一切、恨んだり悔やんだりしないこと。すると決めるにせよ、しないと決めるにせよ、そういう覚悟で選べば、自分にとってよい結果になる。とにかく恨みや悔いを残すことが一番よくない」と言うようにしています。

まあ、こういう問題で私のところへアドバイスを求めてくる人というのは、たいてい本人の中で結論を出していて、最後に気持ちの整理をするためということが多いようですので、こういうことしか言えませんし、相手にとっては、それで十分のようです。

とはいえ、何度も繰り返しますが、財施の強制や強要は望ましいことではありません。まして高額の財施を強制することには問題があります。
やはり財施は自発的に行うべきもので、後々問題が起こったときに責任を持つ覚悟がない限り、高額の財施を強制するようなことには賛成できません。

自分の生き方に変革を起こさない教団や宗教者と関わるのもどうかとは思いますが、だからといって、財施の強制が気に掛かるような教団や宗教者とのつき合いも感心できません。

まあ、1回や2回は自己責任で言われた通りにしてもよいかも知れませんが(よい結果につながる可能性もありますので)、それ以上求められるようであれば、ハッキリ距離を置いたほうがよいと思います。

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2004.12.21
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