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信心家的思考法

すべてを自分の問題と受け止める(2)


「すべては自分の問題」だと言われても、容易に納得できるものではありません。たしかに、明らかに自分の問題と受け止めるのは理不尽だと思われる事態も少なくありませんし、明らかに相手が悪いということもあるでしょう。

そこで考えてみる必要があると思うのは、自分にとって、原因がどこにあるかということをはっきりさせることが大切なのか、それとも問題を解決し、自分の状況を改善することが大切なのか、どちらを目的とするのかということです。

もし、原因を追及し明らかにすることが目的であれば、自分の問題だと受け止める必要はないでしょう。しかし、それはたいていの場合、問題解決に繋がるものではありませんし、自分の状態が良くなるわけでもありません。結局、自己満足で終わります。それでいい人は、これ以上何もいうことはありません。しかし、自分の状況が良くならないからと言って不満を言うべきでもありません。

では、問題を解決する、状況を改善するために、なぜ「すべてを自分の問題と受け止める」必要があるのでしょうか。

もっとも簡単で明白な理由は、他人や環境の責任であるとするならば、その人や環境が変わらない限り、自分の境遇、運命も変わらないということになります。他人や環境が自分の運命の主人となるわけです。自分は悪くないというはかない満足を得ることは出来るかも知れませんが、それだけのことです。

つまり、「すべてを自分の問題と受け止める」ことは、自分が自分の運命の主人となる第一歩だと言えます。

次に考えるべきことは、責任のあるなしという問題は、どちらが善でどちらが悪という問題とは質が違うということです。人間が完璧ではない以上、過ちがないということはありえません。むしろ善悪にこだわることは、問題をありのままに直視することができなくなる原因となります。責任があるからといって、必要以上の罪悪感に悩む必要はありません。

次に、100%自分に責任があるとか、100%自分には責任がないというようなことは、まずあり得ないということです。

たしかに、たまたま事故に巻き込まれるというようなケースもあります。そういった場合まで自分の責任と考えるのは納得できない、或いはあまりにも酷だと感じられます。しかし、そういう結果も自分自身が(意図する、しないに関わらず)繰り返してきた無数の選択の結果としてあることを考えると、まったく責任がないということはあり得ないと言わざるを得ません。

人は往々にして自分を誤魔化していますが、そうせざるを得なかったと思っているようなことであっても、そこには自分の保身や何らかのメリットを考慮した上での打算や妥協が必ずあります。どうしてもそれが嫌なら、デメリットを覚悟の上で別の選択をすることも可能であったはずだからです。と同時に、自分の保身やメリットを考えることは一面において必要なことであって、だからこそ一概に善悪を断ずることには賛成できません。

それはともかく、以上の内容を簡潔にまとめれば、過去に拘泥せず、未来(遥か先のことではなく、ただ今現在より以降という意味で)のことを大切に考えるならば、「すべては自分の問題である」と受け止めたほうがお得ですよ、ということです。

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2001.06.03
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