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心神を傷ましむることなかれ

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信心家的思考法

すべてを自分の問題と受け止める(1)


信心の世界においては、何か困難や問題があったとき、相手や環境の責任にするのではなく、すべては自分の問題であり、自分自身が原因であり、自分の責任であると受け止めることが大切とされます。この原因・責任については、単に自分の過去の言動というだけではなく、自分の心遣い・心の持ち方、前世の因縁、先祖の因縁、神の試練など表現・受け止め方はさまざまですが、ともかく、他者や環境を責めたり恨んだりするのではなく、自分自身が反省・懺悔し、自分の責任として問題解決に取り組むように求められます。

このような考え方は、近代の合理主義的な考え方からすると非合理きわまりないもので、しばしば批判の対象となります。いわく現状維持志向、社会批判・改革意識の欠如、主体性の欠如・・・等々と。

無論、通常の感覚の持ち主なら、自分の言動によって好ましくない結果を招いた場合に関しては自分の責任を認めるでしょう(とはいえ、現実には自分に甘く、他人に厳しい判断をして、自分の責任の範囲をなるべく小さくする人が多いようですが)。しかし、明らかに相手や環境に非があることまで自分の責任と考えることは我慢ならないという人が多いと思われます。ましてや、それが自分では責任の取りようがない先祖の因縁だとか前世の因縁のためであったり、見たこともなければ話したこともない神様とやらから与えられた試練であったりすることは我慢ならないと考えるのが普通でしょう。

とはいえ、宗教の世界に身を置けばいくらでも体験することですが、この「自分の問題であると受け止める」ことが、問題解決の出発点に立つための条件です。また、自分自身が幸せになるための出発点でもあります。

「自分の問題である」ということがとことん自覚できたとき、解決不可能と思えた問題が解決し始めるという例は枚挙に暇がありません。たしかに信仰の初期段階において、さしたる自覚もなく結果が出る「初心の功徳」もありますが、いつまでも続くものではありませんし、また信心の真の醍醐味を味わったとも言えません。

しかし一方、信仰を持っているからと言っても、必ずしも本当に「すべては自分の問題である」と受け止めているとは限りません。

しばしば見られるのは、口では「自分の問題なのよ」といい、頭ではそう思っているつもりでも、心では「私は悪くない」と思い、そういう行動をとっている人です。これは必ずしも自覚がないのでやっかいです。特に始末が悪いのは、「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、全部私が悪い」式の人で、たいていの場合、こういう人は本当の自分の問題点からは目を逸らしているので、一番問題解決からは遠ざかっています。

それから、「自分の問題だ、自分が原因で、責任がある」というと、不必要に自分を責めたり、自己嫌悪に陥ったりする人もいますが、これも問題です。まったく問題の解決には繋がらないからです。そこまで行かなくても、「自分の問題だ」とは思いつつ、では何が問題で、何をどうすればよいのかわからないという人はたくさんいます。

結局、何らかの信仰を持っているという人でも、「すべては自分の問題である」ということを適切に理解している人は少数派なのではないかと考えられるのです(あるいは、信仰など持っていないという人の中にも、すべてを自分の問題として受け止めて生きている人は少なからずいます)。

そこで、「すべてを自分の問題として受け止める」とはどういうことかということを考え直してみることは、非常に重要なことではないかと思うわけです。

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2001.06.03
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