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1.あらゆる宗教は本質において同じ方向を目指している。
2.正しい宗教は、人生のさまざまな場面において有用である。
3.他宗教を排斥するような宗教のあり方は排斥されるべきである。
という観点から、古今の宗教の俯瞰することによって、これからの宗教のあり方を考えようという趣旨で開設しました。
1.あらゆる宗教は本質において同じところを目指している。
何のために宗教があるかということを一言で言えば、よりよい人生を送るためといえるでしょう。
さまざまな宗教を比較すると、お互いに絶対相容れないのではないかと思われる内容も多々あります。
しかし宗教が異なっているからといって別な宇宙に住むようになるわけではなく、異なる法則に支配されるようになるわけでもありません。
ですから、よりよく生きるという観点を中心にすれば、自ずからあるべき方向性は定まってきますし、宗教が違うからといって、その方向性が異なるということはありえません。
善き○○教徒であるということが、善き人間であるということでないのなら、その宗教が間違っているか、その宗教についてのとらえ方が間違っているかのどちらかです。
2.正しい宗教は、人生のさまざまな場面において有用である。
宗教がよりよい人生を送るためのものであれば、人生のあらゆる場面において有用であるというのは当然のことです。
別段、神社仏閣にお参りしたり、儀式に参加したり、聖書や経典を読むだけが宗教ではありません。
むしろ、それらは一種の勉強やトレーニングといったもので、日常生活そのものが本番だといえるでしょう。
人生の役に立たないとすれば、何か問題があるということです。
宗教に対して無用の警戒感を抱き、よりよい人生を送るためのきっかけを失っているということは非常に勿体ないことです。
そして、それ以上に、宗教に対して無用の警戒感を抱かせ、よりよい人生を送るためのきっかけから遠ざけているのではないかということを、信仰者(と自負する人々)は常に反省する必要があるのではないでしょうか。
3.他宗教を排斥するような宗教のあり方は排斥されるべきである。
あらゆる宗教は尊重されるべきです。あらゆる宗教、あらゆる信仰は、それなりの根拠と理由を持って存在しているからです。
もちろん、その信仰がいかなる結果をもたらしているかという点について、厳しく問われる必要はあります。しかし、異端だとか異教だなどといって、信仰そのものを否定されるべきではありません。
ただし、例外があります。それは、他宗教を排斥する宗教です。
共存というのは、お互いにお互いの存在を認め合って可能になることです。このバランスが崩れれば、共存は不可能です。
他宗教を排斥する宗教が、他に対して自らへの寛容を要求するのはまったく不当です。他宗教を邪教呼ばわりする宗教こそが邪教であって、いわば癌細胞のようなものですから、放置しておくことはできません。
そもそも宗教がよりよく生きるためのものという観点に立てば、他宗教の排斥などはまったく愚かしいことです。
自分の生き方ということを中心にして考えれば、人が何を信じているかなどということより先に考えなければならないことがたくさんあるはずです。
他宗教を排斥する人は、自ら「純粋な信仰」や「絶対的な信仰」を誇りますが、他人の信仰をとやかく気にかけた時点で、すでに純粋でも絶対的でもなくなっているわけです。
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本来、こういったことは当然であるはずなのですが、しばしば忘れられがちです。そして、奇妙な思想や信念の体系を作り上げ、それを保持することが信仰だと思いこんでいる向きも少なくありません。
それが一方で、宗教に対するマイナスイメージを助長し、日本人を無宗教にさせている原因ともなっています。
こういった問題を考える上で重要なポイントは、あまりにも宗教について知らないということでしょう。
まず致命的なことは、公教育における宗教教育の絶対的な欠如です。
これについては、宗教的情操が涵養されないという観点での指摘が多く為されています。もちろん、それも重要なのですが、それ以上に問題だと思うのは、いわば宗教に対して無防備状態になっているということです。
宗教というのは単なる日常的な道徳倫理に納まるものではありません。場合によっては、通常の道徳倫理では批判されるようなことさえ必要になることがあります。そのため、受け取り方を間違えたり、迂闊にのめり込んだりすると、望ましからざる結果をもたらすことも少なくありません。
また、宗教(教団)というのは、それぞれが一つの宇宙を作っているようなものですから、それ自体が完璧で絶対的なものとして存在しています。
しかし、形になった教義や教団は、真理の一側面ではあるという意味では絶対的なものですが(また、そうでなければ成り立ちませんが)、真理の全体ではあり得ません。
ですから、形になった部分を無批判に絶対視すると、甚だバランスを欠いた人間になってしまうわけです。
その典型的な例が、いわゆる優秀な人間が反社会的カルトにのめり込んでしまうというようなケースです。
こういった問題に対処するためには、やはり宗教についてある程度知っておく必要があります。
主観的には自分の信仰を絶対視する必要がありますが、客観的には相対的なものであることを知っておくことも重要だと思うわけです。
信心を深めるためには必ずしも宗教についての知識が必要とはいえませんが、信仰を誤らないためには、ある程度の知識が必要です。
また、宗教に関心はあるけれども、何となく近寄りがたいという人にとっても、ある程度のことを知っていれば、必要以上の警戒心を働かせる必要はなくなると思われます。
以上のような観点に基づき、古今の宗教を俯瞰しながら、これからの宗教を考えてみたいと思うわけです。
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◎補足1.現代日本の宗教事情に思うこと
◎補足2.サイト名の変更について
※「古今宗教研究所」はウェブサイト名であり、現実に実態を有する機関・団体ではありません。