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宗教と信心を考える

分け登る麓の道は多けれど


分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな

一休禅師の作と伝えられる道歌である。宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じであるということを説いている。

これは当然のことで、仏教徒であろうが、キリスト教徒であろうが、ムスリムであろうが、あるいは無宗教であろうが、同じ世界に住み、同じ人間としての肉体を持ち、同じ法則に支配されているのである。ならば、宗教的安心を得る、あるいは幸福になろうとしたときに、否応なく同じ方向に進むことは難しく議論するまでもない。

それぞれの宗教は、文化や社会の背景の違い、また教祖の個性の違いによって、出発点とアプローチの仕方は大きく異なる。それがそれぞれの宗教の個性を決める。また、宗教によって、教えの深浅に違いがあるのも事実である。

しかし、どのようなところから出発したとしても、また教えに深浅があったとしても、誠実に宗教の目的を追求していくならば、自ずから到達するところは同じになる。表現の違いに惑わされて、表面しか見ない人には違って見えるかもしれないが。

ところが、世の中には宗教の到達するところは同じだというと、激しく拒絶する人たちがいる。あるいは、他の宗教との違いに価値を見いだし、その宗教でなければ救いがないかのように主張する。まったく愚かなことである。

そもそも真理というのは普遍的なものだし、どんな名前で呼ぼうと我々を生かしている「サムシング・グレート(この言葉は非常に的確である)」も別のものではないのだから、どのような宗教から出発するにせよ、行き着くところが同じであるのは当然のことである。たとえ表現は違っていたとしても。

では、なぜ自分たちの宗教は他と違うと主張し、他宗教との違いを強調する人たちがいるのであろうか?

それは、そういった人々は神・仏・キリストなど、自分の信仰対象そのものを信じているのではなく、神・仏・キリストといった信仰対象についての教義とか信条とかを信じているに過ぎないからである。

教義とか信条は神や仏、あるいは真理そのものではなく、そこに至る手段である。言い換えれば、頂上に登るための道なのである。他宗教とは相容れない、到達するところが同じなどということはない、というのは、言ってみれば、麓の道でうろうろしているからなのである。よって、そういうことをいう人物に、本当の意味での信仰者というのはまずいない。

一般的に、こういう麓をうろうろしている聖職者のほうが熱心で純粋に見えるので(純粋かどうかはともかく、実際に熱心であることが多い)、このことは聖職者のレベルを見極める上で、このことは確実な基準となる。

そもそも聖職者といっても、人間であることは在家信者と変わるところはない。聖職者だからといって、必ずしも信仰心があるとは限らない。むしろ、しばしば純粋性が失われたり、聖職者という権威に錯覚して、信仰そのものは一般信者以下になっていることも少なくない(権威を持つというのは厳しいものである)。

先日、ある宗派を超えた僧侶の団体の機関紙を読む機会があったのだが、その中の紙上相談というコーナーで、「神仏習合が信仰そのものを無視している」という一節があった。この回答者は、神様は慶事や願い事を司り、仏さまは弔事や癒しを司るので両方必要だという誤った考えに導かれるのだが、「実際には神式の弔事もあれば仏式の慶事もある、互いに相容れない存在であることが真実なのである」という。

ところが、日本では千年余にわたって、各宗派の祖師たちを含む高僧・名僧がともに神仏を尊重し(浄土真宗の開祖である親鸞聖人も当時の人々の一人として当然のことながら、日本の神々を尊重している)、そこに矛盾を感じなかった。今でも、多くのお寺には鎮守の神祠がある。この回答者の基準に照らせば、日本の過去の仏教者は、一部の偏狭で排他的な人々を除いて軒並み信仰者失格ということになる。

要は信仰を仏教、神道といった枠すなわちの中でしか捉えられないのであり、そういった枠を超えた宇宙そのもの、神仏(サムシング・グレート)そのものといったレベルに立てないから、こういうことを恥ずかしげもなく言えるのであろう。

先の回答者は、神仏習合、さらに正月に神社・寺院に参り、お彼岸やお盆に墓参りをし、クリスマスを祝い、大晦日に除夜の鐘を聞くというような日本人のあり方を、一面で宗教的寛容と評価しながら、そのものについては「道理外れ」と断定する。

仏教・神道・キリスト教といった枠に囚われ、私たちを生かしている「いのち」というものにたどり着いてないから(頭では「知っている」かもしれないが、自分の生き方あるいは価値観にはなっていない)、それが「道理外れ」と見えるのである。

神仏をともに信じ、さらにはキリスト教その他も平気で取り入れる日本人の宗教性の価値は、単に宗教的寛容というレベルに留まらない。セクトの枠に囚われず、真理そのもの、我々を生かしているサムシング・グレートを何の抵抗もなく受け入れる素地を作ってきたからである。

言い換えれば、神道・仏教さらにはキリスト教その他(自分の信仰する新宗教など)が複合して、一つの宗教になっているのである。宗教を合理的に解釈しようとする人には我慢ならないかもしれないが、宗教というのは合理的に解釈した時点で多くのものが抜け落ちてしまうのだ(宗教多元主義や相対主義も、それぞれの宗教を合理的に解釈する点で失敗をしていると私は思う)。

実際、一般的な日本人であれば、○○教だけが正しいなどという主張より、あらゆる宗教の根本は同じであるというほうが受け入れやすいであろう。

言い換えれば、○○教といった宗教(教団)の枠組みより、真理そのもの、宗教の根本に価値を置いているのである。ところが、一般には宗教(教団)の枠組みが宗教だと思われているので、アンケートなどに答えるときは「無宗教」ということになる。

無宗教だからといって宗教性がないということではない。むしろ、より本質的なのである。なのに、自分たち自身まで「無宗教」という言葉に騙され、宗教性を捨て去ろうとしているのは残念なことである。

およそ誠実に道を求めるならば、仏教やら神道やらキリスト教やらといった枠の中に安住はできないと思う。

無論、その宗教を捨て去るという意味ではない。山を登るときはどれか一本の道を選ばなければならないように、あれこれつまみ食いというではダメだし、頂上にたどり着いたからといって山道に価値がなくなるわけでもない。
しかし、その宗教の教義や信条、その他の枠に対するこだわりやとらわれを抜け出さなければ、枠の中に留まるしかない。それはこの世界の真実の姿ではないし、神や仏そのものでもない。

要は、仏教・神道・キリスト教、あるいはイスラームやユダヤ教その他、あらゆる宗教は山を登るための道なのである(中には統一教会みたいな行き止まりの迷い道もあるが、ある程度は登っているので、そこから藪を抜けて他の道に出ることができる)。そういう意味で、それぞれの宗教は相対的なものである。

相対的なものを絶対的なものと錯覚するから、さまざまな問題が起こる。他の宗教との違いに価値を置き、自分たちの宗教でなければ救われないなどというのは、自ら道をふさぐ障害物に成り下がっているのである。

いかなる宗教も相対的なものであり、サムシング・グレートに到達するための道の一つとしての立場と役割に徹するとき、初めて相対的な宗教が絶対的な価値を持つのだと思う。麓の道は麓の道であることを自覚し、その役割を果たすべきである。

信じる側も、自分たちがそういうシビアな目を持てば、やっかいな宗教で困ったり、質の悪い聖職者に悩まされることが、ずっと少なくなるのではなかろうか。

分け登る麓の道にとどまりて 高嶺の月を見ることもなし

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2008.04.08
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