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信仰で後悔しないために

信仰への疑問が生じたときに(7)


自分の基準で判断してよいのか?

これまでに述べてきた内容について、何人かの方から、信仰的な人から「人間中心に過ぎる」「自分の我を捨てなければならない」といったような批判を受けるのではないか、という指摘をいただきました。

私自身も、そう感じる人は少なくないだろうと思います。確かに、そういう一面はあるからです。ただ、私がここで問題にしているのは、あくまで「信仰に疑問が生じた時」のことであって、信仰のあり方そのものを論じているわけではありません。

とはいえ、本来、信仰はいかにあるべきかということを抜きにして考えると、自分の基準、常識や自分自身の価値観だけで判断してしまう可能性があることも事実です。

信仰というのは、それまでの常識や自分の価値観(特に世俗的・唯物的価値観)を放棄し、信仰対象に自分自身を投げ入れることが不可欠です。「帰依」「帰命」ともいいますが、絶対の帰順、心のからの誠を捧げること、信じ頼ることです。つまり、自分の価値観や判断など入る余地がないという状態でなければ、本当の信仰とはいえません。

やめた人が不幸になるということは、自分たちの教団の正しさ・絶対性を保証するものであると同時に、やめた人に対する優越感を持つ快感、脱落者を出さないための牽制など、いろいろな意味があります。

常識や自分の価値観で理解できたり、納得できるようなものだけを受け入れるのでは、本当の信仰の意味などわかろうはずもありません。また、自分の枠を超えることもできません。

『歎異抄』の中の親鸞聖人の言葉に、次のような一節があります。

「親鸞にをきては、たゞ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるゝたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じても存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかさせまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。(親鸞においては、『ただ念仏して阿弥陀如来に救われなさい』という、師の教えをいただいて、信ずるというほかに特別のことはないのである。念仏は本当に浄土に生まれる種なのだろうか、地獄へ堕ちるべき業なのだろうか、そうしたことはまったく知るところではない。たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に堕ちたとしても、決して後悔しないであろう)

法然上人以前も、恵心僧都の『往生要集』に見られるように阿弥陀による救いを説く人は多く、空也上人をはじめとする聖たちが人々に念仏を勧めていました。当時、念仏は宗派を超えて重視されていました。

ところが法然上人は、口称念仏(念仏を唱えること)のみが極楽浄土に往生し、成仏するための正定行であるとし、他はかえって極楽往生を妨げるものであると主張しました。そして、肉食妻帯すらも認めたのです。

当時の人が、救いに到るために役立つと考えていたものを、念仏を除いてすべて否定し、救いに到るための障害となると考えていたものを、念仏さえ唱えれば問題ない(厳密には違うにしても)というのです。これは、それまでの常識を覆す革命的な主張でした。

ただ念仏を唱えることしかできない人こそが救われるのであって、成仏のための修行をしているような人は救われがたい。しかも、それは釈尊をはじめ、インド・中国の祖師方の教えとして保証されているというのです。

それまでの仏教の通念では救いの対象から漏れていた人々にとって、法然上人の教えは無条件に有り難いものだったでしょう。そういった人々にとって、それまでの仏教の難しい内容を理解していたわけではなく、ただ自分たちは救われがたい人間なのだということしかわかっていなかったはずだからです。

しかし、親鸞上人のような出家者(しかもレベルの高い)にとって、これを受け入れることは一大決心が必要だったと思われます。

当時、急成長する法然教団に対し、南都・北嶺の諸宗派はこぞって攻撃をしました。一般には、台頭する新興教団によって旧教団が脅かされたためと説明されます。確かにそういう側面も大きかったでしょうが、それのみではないことは、解脱上人貞慶や栂尾の明恵上人といった日本仏教史を代表する高徳の僧が、仏法を滅ぼすものとして激しく批判していることからも明らかです。

親鸞上人は批判を受ける問題点も、その理由も熟知していたはずです。いくら法然上人に出会うまでの親鸞上人が苦悩葛藤していたといっても、何も知らない人々のように、ただ喜んで法然上人の教えに参ずることができたとは思えません。それまでの常識、自分自身が培い、当然のものとしてきた価値観を一切放擲した上で、法然上人の教えに従い、妻帯まで決行するに至ったわけです。

その信仰の素晴らしさは、「念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」という一語に表されていると思います。実に、ここまでの信を持ってこそ、真の信仰というべきであり、故にこそ親鸞上人も親鸞上人たり得たわけです。もし、親鸞上人が、常識や自分なりの価値観へのこだわりを捨てることができなければ、歴史に名をとどめることもなかったでしょう。

以上のようなことを考えれば、信仰に疑問が生じた時も、常識や自らの価値観を抑えて、素直に従うべきだということになりそうなものですが、そこには大きな問題があります。

まず、指摘しておくべきことは、法然上人がそれだけ優れた人物であったということです。法然上人は勢至菩薩の生まれ変わりといわれるほど学徳が高く、また持戒堅固の清僧でした。いわば、個人としては非の打ち所のない人物であり、そのことは当時においても広く認められていました。その上で、どのような人でも救われる教えを求め、専修念仏の教えを説くようになったのです。

つまり、法然上人自身が、親鸞上人の帰依を裏切ることのない器と中身を備えていたということです。

ところが、大変失礼な言い方ではありますが、現代でも多くの宗教家が活躍していますが、例えば法然上人ほどの中身を備えた方がどれほどいるでしょうか? もちろん徳の高い、優れた方も大勢いらっしゃるでしょうが、中には社会問題を起こした某教団の教祖のような偽物や詐欺師まがいの人物も、もっともらしい顔をして信者を集めているわけです。それほど極端な例ではなくても、たとえ本物の宗教者であっても器の大小があることは、否定できない現実です。

師と仰ぐ人物(あるいは教団)に出会った時、相手にどれほどの器があるか、信じる側からはわかりません。自分より大きい人物というのは、自分の尺度では測れないものです。とにかく自分よりすごいということはわかっても、どれぐらいすごいかということはわかりません(わかるなら、師は必要ないでしょう)。

ですから、最初はそれを承知の上で、飛び込まなければ何も始まりません。その時には、常識や自分の価値観はいったんゼロにすることが不可欠です。

とはいえ、自分自身もそのままで成長しないわけではありません。師の器がさしたるものでなければ、自ずと限界を感じるようになるます。その時、師の枠に留まっていたのでは、より広く深い世界に到達することができなくなってしまいます。法然上人のような本当に偉大な人物に出会うことができるというのは、実に幸運なことといわざるを得ません。

しかし、より重要なことは、信仰といえども、自分自身で自覚的に帰依しなければならないということです。

考えてみれば、親鸞上人はすでに法然上人に出会う以前、幼少時より仏門に入り、修行も勉学も重ねていました。さらに、当時の仏教界の姿、自分自身の煩悩に葛藤し、思索を深め、神秘的な体験もした上で法然上人に出会い、その元に身を投ずることを決めたわけです。あくまで、帰依することを決めたのは「自分自身」です。

いったん身を投じた後は、既成仏教界の激しい批判を受けようが、師弟ともに流罪になろうが、その信念を揺るがせなかったのですが、その間には自問自答することも少なからずあっただろうと思うわけです。

先に引用した『歎異抄』の一節は、次のように続きます。

「そのゆへは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらはゞこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(その理由は、その他の修行を励んで仏になることができる人が、念仏をして地獄に堕ちたというのであれば、騙されたという後悔もあるだろうが、いずれの修行もできない身であるから、地獄は決められた自分の住まいなのだ)

これは、思いつきで軽くいえるような内容ではないでしょう。親鸞上人自身が考え抜き、突き詰めた上で出した結論であればこそ「さらに後悔すべからずさふらふ」「地獄は一定すみかぞかし」と、信者達に言い切ることができたのだと思うのです。

ひるがえって我々はどうでしょうか?

そもそも、親鸞上人のように自分自身を見つめ、自覚的に師を選んでいるかという出発点から問題があります。たいていは縁あって、漫然とした流れのままに出会い、次第にそういう世界に目覚めてくる(目覚めればいいほうかも知れません)といったところでしょう。日常のお付き合いの延長線上から始まるケースのほうが多いのではないでしょうか。

自分自身を見つめ、真理を求めてそういう世界に飛び込むというのは、プロの宗教化を目指す人は別として、非常にまれだと思います(いつの間にか、最初からそうだったように記憶が書き換えられている人物は、よく見かけますが)。

もちろん、追いつめられて必死にすがり、救いを得たとか、不思議な導きを得て出会いがあったという人もいるでしょう。が、こういうケースでも、最初は感動し燃え上がって一生懸命やるでしょうが、ある程度経つとだんだんマンネリ化し、感動が薄れてきます。どこかで、自覚的に帰依することが必ず必要です。

信仰的でなければ、とか、人間中心的な考えではダメ、とか言いながら、うちに不満を抱え、あるいは仲間内で愚痴や不満をこぼし合っている人がいかに多いことか。あるいは、社会問題になったいくつかの教団のように、財産をむしり取られたり、果ては犯罪者になってしまったりして、大切な人生を棒に振るようなことになるわけです。

ですから、信仰は常識や自分の価値観などを捨てなければなりませんが、そこには、必ず自分自身の決断が必要になります。あくまで、絶対的に帰順することを決めるのは自分であり、また、責任を取るのも自分自身なのです。

もう一点、重要なことは、人間や人間の作った組織(教団)は絶対的なものではあり得ないということです。あくまでも、師や教団に帰依するのは手段であって、目的は神そのもの、あるいは法(真理)そのものであるべきです。それを間違って、人間や人間の作った教団を絶対視してしまうことにより、場合によっては悲劇的な事態を迎えることもあり得るわけです。また、これは、導く側の人間や教団においても充分認識されるべきことだと思います。

インドの大聖ラーマクリシュナは次のように言います。

「どの教義も道ではあるが、教義は決して神ではない。だが、熱心に信仰して一つの教義に従ってゆくと、やがては神様のところに着くだろう。教義に間違いがあったとしても、誠実で熱心ならば神ご自身がその間違いを正して下さる。
誰かが心の底からジャガンナート(ヒンドゥー教の聖地)へ参詣したいと思って出発したが、道を間違えて南へ行かずに北の方に歩いて行ったとしよう。すると、途中で会ったどこかの人がきっと、『おや、ジャガンナートはこっちじゃありませんよ。南の方へ行かなくちゃ』と教えてくれるよ。そしておそかれ早かれ目的地に着くことができる」
(田中カン玉訳『不滅の言葉』中公文庫より)

私の取る立場も、これと同じです。選んだ師や教団は間違いがあるかも知れない。しかし、法(真理)そのもの、神そのものを求めていれば、自ずと道が開けていくと思いますし、自分自身がそうでした。

そのような経験もふまえて、熱心に信仰していて生じてきた疑問というのは、もしかすると「神ご自身がその間違いを正して」くださっているのかもしれない、と思うわけです。

そこで大切なのは、「だから別の道を行こう」ということではなくて、神そのもの、法(真理)そのものを絶対視した上で、自覚的に選ぶということだと思います。たとえその選択が間違っていたとしても、「誠実で熱心ならば」再びチャンスが与えられるはずだからです(ただ、誠実で熱心であれば、そう何度も間違えないはずだとは思いますが…)。

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2003.07.30
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