カトリック教会内に「正義と平和協議会」という組織があります。この名前を知ったとき、「正義」と「平和」という言葉の組み合わせにとても違和感を持ちました。なぜなら、私の中で、「正義」と「平和」は絶対両立しない、もしくは両立すると大変危険な言葉だという認識があったからです。
しかし一般的には、「正義」も「平和」もよい印象を持った言葉であり、この二つが並んでいても別に違和感がないでしょう。
そこで、この「正義」と「平和」という言葉について考えてみたいと思います。無論、以下の内容は、カトリック教会の「正義と平和協議会」の主張や活動内容、あるいはそれらに対する評価とは無関係の一般論です(ただ「正義」と「平和」という組み合わせについて、どう考えているのだろうかという関心はあります)。
「正義」の意味を角川書店の『国語中辞典』で見ると「人として踏み行うべき正しい道。公正な道理。正道」という意味と、"justice"の訳語として、「基本的な徳目の一。プラトンは社会全体の幸福を実現する知・結城・節制の調和が佳く保たれていることを井伊、またアリストテレスは分配的正義と報償的正義とあり、全体の配分または個人間での償い合いに均衡のあることをいう」という説明があります(「正しい意義・解釈」という意味もある)。
このような定義なら問題がないのですが、実際には特定の教条を「正しい道・公正な道理」とし、それ以外のものに対して、"jusutice"が持つ「応報」「処罰」という意味を適用することが多いように思われます。
ですから「正義」を主張する場合、価値観や思想が異なれば、それは正義に反している、すなわち「不正義」「悪」ということになります(単なる考え方の違いではないということ) 。
例えば、私の思想や価値観は日本の「正義と平和協議会」(以下、「正平協」と略する)と多くの点で異なっており、正反対であることも少なくありません(例えば首相の靖国神社参拝を支持し、国旗・国歌へ敬意を表すことは当然と考えています)。そうすると、彼らから見て私の思想や価値観は正義に反しており、「不正義」「悪」ということになるでしょう 。
そして、「正義」を実現するということは、当然、「不正義」「悪」である敵対者が 改心するか、屈服することによって実現するということになります。先の例を使え ば、私が思想と価値観を改めて『平和主義者』になるか(とはいえ、今でも私は『平和主義者』であり、ただ、無責任に「平和」を叫ぶだけで平和が保たれた例しはないと考えているだけなのですが…)、彼らの圧力に屈して黙り込むかということになります。
※つい10年余り前、社会主義や共産主義の破綻が明らかになるまでは、実際にそのような状態でした。戦中の「非国民」と戦後の「軍国主義者」は、自由な言論の圧殺という意味で同じような使われ方をしていたといえます。
つまり、多様な価値観が存在する中で正義を主張するということは、必然的に正義側と不正義が分離し、敵対者が発生し、争いが起こるということです。
そもそも正義か否かを何によって決めるのでしょうか? 例外なく、自分たちの知識や体験に基づく価値観を「正義」としているに過ぎません。
立場が異なれば正義も変わります。それがどれだけ普遍的妥当性を備えているかという違いはあるにしても、絶対的な正義などありえないことは、歴史を見れば明らかです。
そして歴史上、「悪」「不正義」を掲げて戦った戦争など、ただのひとつとしてありません。どのような戦争であれ、すべて自らを「正義」として戦っています。「ホロコースト」でさえ、当事者にとっては「正義」だったのです。
よくよく考えてみれば、、世に氾濫している「正義」のうち、本人に実害の及ぶ「正義」を主張している例がどれほどあるでしょうか。しかも「正義」を主張すると、冷静な反論というのは押し潰されてしまうわけです。
つまり、往々にして「正義」は「平和」とは相容れない、もし「正義」のもとに「平和」が(一時的にでも)実現するとすれば、それは全体主義体制の確立に過ぎないと見て間違いありません。
むしろ「平和」を実現するために必要なものは「寛容」です。
第二次大戦中の日本であれ、文革の中国であれ、ポル・ポト政権下のカンボジアであれ、赤軍の内ゲバであれ、異なる考え方や価値観(あるいは民族その他の属性)に対する寛容の欠如がさまざまな悲劇を起こし、傷跡を残したのであって、思想の違いが大きな問題ではありません。(その背後には各自の利己的な欲望…物質的なものだけではない…が隠れているわけですが)
社会生活を営んでいく上で、誰しも正しいと信ずる信念を持つことは当然ですし、「正義」を主張することも必要です。しかし、あくまでそれが絶対的なものとは言えないことを自覚し、自己の正義を相対化する余裕と他に対する寛容が不可欠であると考えるわけです。
「平和」の実現に必要なものは「寛容」です。「正義」はしばしば戦争を正当化するという歴史の教訓をよくよく心にとどめておかなければ、正義と信じて悲劇を引き起こすという失敗を繰り返すことになるでしょう。
付記.念のため繰り返しますが、以上の内容はカトリックの正平協について評価したものではなく、あくまで一般論として「正義」と「平和」の組み合わせについて述べたものです。当然、正平協そのものに対する考察や評価ではありません(ただし、上記のような理由で、正平協が「正義」と「平和」を掲げていることについは疑問を持っています)。
正平協については情報不足でよくわからない点が多いのですが、カトリック教会そのものについては、多様な見解の共存を認める極めて寛容な教会として、私自身は高く評価しています。特に第二バチカン公会議以降の宗教間対話に果たしている役割は非常に大きなものです。