天野社・天野大社とも称される丹生都比売神社〔にうつひめじんじゃ〕は、高野山一山の地主神である。和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野に鎮座する。
天野の里は四方を山に囲まれた標高約500メートルの盆地で、かつては高野山の表参道であった。今ものどかな風情を漂わせる山里である。

主祭神の丹生都比売大神〔にうつひめのおおかみ〕(丹生明神)は、天照大神の妹神である稚日女尊〔わかひるめのみこと〕とされる。また、第二殿には高野御子大神〔たかのみこのおおかみ〕(高野明神)が配祀され、さらに鎌倉時代、行勝上人によって大食都比売大神〔おおげつひめのおおかみ〕(気比明神)、市杵島比売大神〔いちきしまひめのおおかみ〕(厳島明神)が第三殿、第四殿に勧請されたところから、四所明神とも呼ばれた。
丹生とは丹(丹砂)の生ずるところを意味する。丹砂は朱砂・辰砂ともいい、水銀の原石である硫化水銀のことで、古くから朱色の染料の材料として用いられた。もともと丹生都比売神は、丹砂の採掘を掌る丹生氏によって祀られていたと考えられる。
『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条に「天野祝〔あまののはふり〕」の名が見えることから、8世紀には天野祝氏によって奉斎されていたものとみてよいだろう。なお、天野祝氏は紀国造氏や丹生川上神社に仕える丹生祝氏の同族で、もとは大丹生直〔おおにうのあたい〕を称していた。『丹生大明神告門〔にうだいみょうじんのりと〕』によれば、丹生都比売大神は神代に紀伊国伊都郡奄田に降臨し、御子の高野大神とともに大和・紀伊を巡った後、天野原に鎮まったとされる。
また、『播磨国風土記逸文』によれば神功皇后の新羅平定に際して、丹生都比売神が武器や衣装、船を赤く染めるようにと託宣し、これによって軍の威力が増した。その功に対し、紀北地方の広大な土地が神領として定められたという。

弘法大師の高野山開創に際しては、高野御子大神が狩人の姿の狩場明神〔かりばみょうじん〕として現れ、白・黒二匹の犬に高野山まで案内させたと伝えられる。そして、丹生都比売大神から高野山を譲り受けた大師は、丹生明神・高野明神を高野山一山の鎮守神として祀ったとされる。
弘仁7年(816)には、天野社近くに曼荼羅院を建立し、翌年高野山に移したと伝えられる。
天暦6年(952)、落雷により高野山奥の院の御廟が消失した際、天野検校と呼ばれた雅真僧都は天野社に住み、高野山の復興に尽力した。
また、正暦5年(995)の落雷による高野山大火のため、長保3年(1001)から16年間にわたって高野山は人の住めない状況になった。この時、一山の僧侶は天野社に住んで、夏場のみ奥の院御廟の供養を行ったという。
この時、復興の中心となったのが祈親上人である。神社の近くには、祈親上人の復興にまつわるエピソードとして有名な「貧女の一灯」のお照のものと伝わる墓が残っている。

以来、丹生都比売神社は高野山と深い関わりをたもちながら繁栄した。
皇室・公家の崇敬も大変篤く、貞観元年(859)に従四位下を授けられ、寿永2年(1183)には従一位となる。延喜式においては名神大社に列し、祈年・月次・新嘗の幣に預かる。
承元2年(1208)、二位尼(北条政子)が熊野詣での帰りに天野社に参拝。この時、行勝上人の懇請により浄財を喜捨し、気比明神と厳島明神が勧請されたという。また、元寇に際しては託宣があり、祈祷の功によって幕府より神領の寄進があった。
しかし、明治の神仏分離令で高野山の手を離れてからは厳しい時代を迎えた。大正13年(1924)に官幣大社に昇格。

楼門と本殿は室町時代の建築で、国の重要文化財に指定されている。特に本殿は、一間社春日造りでは日本最大とされる。内部に内宮殿があり、その中にご神体を安置するという珍しい形式である。
その他にも、国宝・重要文化財を多数所蔵するが、東京・京都・奈良の国立博物館や高野山霊宝館に展示されているものも多い。
平成14年には境内全体が国の史跡に指定されている。さらに平成16年(2004)7月には、高野山や熊野三山などとともに『紀伊山地の霊場と参詣道』として世界遺産に登録された。
なお、丹生明神・高野明神は、弘法大師によって伊都郡九度山町の丹生官省符神社〔にうかんしょうふじんじゃ〕、高野山壇上伽藍内の明神社にも祀られている。