古今宗教研究所 > 諸宗教の考察 > 仏教

古今之諸宗教考察

仏教

前頁へ  目次へ  次頁へ

仏教を基本から考える

六十二見(5)


六十二見に対する釈尊の立場

釈尊は、これら六十二見に対する評価とそれについてのご自身の立場を次のような言葉で語っています。片山先生の訳をそのまま引用します。

比丘たちよ、これについて、如来が知るところはこうです。『このように捉えられ、このように囚われたこれらの見地は、これこれの行方、これこれの来世をもたらすであろう』と。如来はそれを知り、またそれよりすぐれたことをも知ります。しかもその知ることに執着しません。執着しないから、ただひとり自ら、そこに離脱が見られます。比丘たちよ、如来は、もろもろの感受の生起と消滅と楽味と障害と出離を、あるがままに知って、執着なく、解脱したのです。

釈尊はそれぞれの立場について、決して否定していません。すでに見たように、釈尊はそれぞれの説について、本人たちよりもよく知っています(「如来はそれを知り、またそれよりすぐれたことをも知ります」というのは、彼らの説くところを知り、さらにそれがどういうところから説かれるかも知っているということ)。それらは釈尊の世界観の中で説明できることだからです。

そして、それらの立場の人々について、それらの見解がどのような来世をもたらすかを知るといいます。これは、来世の禍福についてわかるという意味ではなく、輪廻を繰り返す、つまり解脱することなく再生するという意味のようです。

というのは、それらの見解は例外なく次の生存の因縁となるもの、もしくは次の生存へ導かれる過程で派生したものだからです。

釈尊によれば、これら六十二の見解というのは、彼らが「知らないまま見ないままに感じ取ったことであり、渇愛に囚われた者たちの煩悶し動揺したことに」すぎず、「接触を縁と」しているからです。これは十二支縁起でいう「触」から「取」に相当すると思われます。
あらゆる見解は、必ず心と五官が対象と接触すること(触)による感受作用(受)がなければ生じません。そこから盲目的衝動(愛)が生じ、執着(取)が生じたのだのが六十二見だというわけです。

釈尊は言います。

そのすべての者は、六種の接触場所を通して、それぞれに触れ、感知します。それらの感受を縁として渇愛があり、渇愛を縁として取著があり、取著を縁として生存があり、生存を縁として生まれがあり、生まれを縁として老・死が、憂い・悲しみ・苦しみ・悩み・煩悶が生じるのです。

つまり、六十二見はすべて「触」を縁としており、それらを主張する人たちはすべて十二縁起の生存から老死に至る輪廻の中にあるので、解脱することがなく、例外なく次の生存に導かれるということです。ゆえに「これこれの行方、これこれの来世をもたらすだろう」と知ることができるというわけです。

そして一方、如来はこの縁起の仕組みを理解し、もろもろの見解に執着しないので、「生存に導くものが断ち切られて」います。そのため、輪廻を解脱できるのだというのが、釈尊の説くところです。

つまり、釈尊の価値観は、それが輪廻からの解脱につながるかどうかという一点に置かれています。六十二見の最後に現世涅槃説が置かれていることは、特に注意するべきです。

ですから、六十二見については、それらに執着すれば必ず輪廻に留まり、解脱できないという点で、一つ一つ論駁する必要がありません。その観点からすれば、たとえ六十二見に含まれないいかなる説を持ってきたとしても、それが「接触を縁として」いるかぎり、解脱をもたらさないものであるということになります。

言い換えれば、釈尊であっても、世界や我について何らかの見解を打ち出したとすると、それはやはり「接触を縁として」おり、生存の原因となるものとなります。ですから、有名な毒矢の喩えにおける捨置記(返答を与えない)も正覚・涅槃の役に立たないという言葉からイメージされるような消極的な否定によるものではなく、それが解脱を妨げ、来世の生存の原因となるという積極的な否定によるものであると見るべきでしょう。

因みに、仏教徒を称しながら輪廻を否定する人の主張するところは、六十二見でいう「推論・考量による無因生起論」と「肉体の断滅による断滅論」、「現世涅槃論」を組み合わせたものといえるでしょう。よって、釈尊の説くところによれば、彼らは輪廻に留まるということになります。

こういうと、これらの人たちは、「自分は仏教徒であり、無我説だから、それらの見解とは無関係だ」というでしょう。しかし、そうはいっても、生まれてから死ぬまでの期間について、「自分の一生である」という認識もしくは感覚は持っているでしょうし、身体を「自分」もしくは「自分の身体」という認識もしくは感覚を持っていることは間違いありません。問題はどのような見解を看板にしているかではなくて、どのような認識や感覚を持っているかですから、いくら自分は無我説だと主張したところで、自分の人生や身体について「私である」「私の身体である」という認識を持ち(つまり、我があるという認識を持っているということ)、前世や来世がないと思っているならば、実態として無我説ではあり得ません。ですから、無因生起論であり、断滅論であるということになります。

それはともかく、六十二見の全体像を見れば、釈尊の教えが輪廻と解脱の問題を中核としていることがよくわかると思われます。そして、その立場に立つ限り、時代や社会的背景がいかに変わろうとも、一切関係ないわけです。

前頁へ  目次へ  次頁へ


2008.07.31
古今宗教研究所
Copyright(C) 1998-2016 Murakami Tetsuki. All rights reserved.