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宗教と信心を考える

わらしべ長者に学ぶ信心のコツ


日本の昔話に『わらしべ長者』という話があります。一般には、貧乏な主人公が物々交換を繰り返しながら長者になっていく話と認識されているようです。

以前、アメリカのブロガーがペーパークリップから物々交換を繰り返して家を手に入れたとき、「アメリカ版わらしべ長者」といわれていました。

しかし、『わらしべ長者』は物々交換で金持ちになるという話ではありません。もともと『今昔物語集』などに見える大和(奈良県)の長谷寺の霊験譚で、観音様の御利益によって長者になったという物語です。

つまり、観音様を信仰すればこんないいことがありますよ、ということなのですが、なかなかどうして、この話は単なる御利益話ではありません。信心によって御利益をいただくための必要不可欠なコツが説かれているのです。まったく信心の教科書みたいな見事な内容です。

信心においては、何を信仰するかが問題ではなく、どのように信仰するかが問題だというのは筆者の常に主張するところですが、その「どのように」がよくわかるのが、わらしべ長者だと思います。

この話のポイントがわかれば、自分の信心のあり方の問題点がよくわかります。また、信心による現世利益というのが単に願えば叶えられるなどという簡単なものではなく、自己の成長を必要とするものだということがわかるでしょう。

そのポイントを探る前に、わらしべ長者の話を確認しておきましょう。昔話の例に漏れず、細部でいろいろなバリエーションがあるのですが、とりあえず昔私が読んだ記憶に基づいて簡単にまとめてみます。

※実は、この文章を書くにあたって、児童書などでわらしべ長者を探したのだが、あるのはたいてい「三年味噌型」というタイプで、今昔物語などの系譜を引く観音霊験譚ではない。アニメの「まんが日本昔話」は観音霊験譚タイプだが、アニメらしいアレンジがあるのでそのまま使うのは難しい。

@ある貧乏な男が長谷寺の観音様に二十一日間の祈願をして、満願の日に「寺を出て、最初につかんだものがお前に授けるものである」とのお告げを受けた。

A寺を出たところで石に躓いて転び、わらしべをつかむ。そのわらしべを、お告げ通りに大切に持って行くことにする。

Bアブが飛んできて、追い払ってもまとわりついてくるので、つかまえてわらしべに結わえる。

C牛車に乗った母子と出会う。子どもがわらしべで結わえたアブをほしがったので、それを与える。お礼にミカンをもらう。

D道ばたにのどが渇いて苦しんでいる人がいたので、ミカンを与える。お礼に布をもらう。

E道ばたに馬が死んでおり、そのそばで馬飼が困っていたので、布と交換する。観音様に祈願すると、馬が生き返る。

Fある屋敷の前を通りかかると、人々が忙しげに動き回っている。聞けば主人が地方に赴任するところで、引越の準備をしているという。主人は男が連れている馬に目をとめ「いい馬が必要なので、その馬を借りたい。その間、自分の屋敷の留守番を頼みたい。3年経って帰ってこなければ、屋敷を自分のものにしてよい」と申し出た。男はそれを承諾する。

G3年経っても主人は帰ってこなかったので、屋敷は男のものとなり、わらしべ長者と呼ばれるようになる。

以上、一見すると、まったくとんとん拍子の展開です。無宗教を標榜する人であれ、信仰者を自認する人であれ、「世の中、そんなにうまくいくものじゃない」という反応が多いのではないでしょうか。

ところが、自分を主人公の立場に置いてみると、この主人公と同じような行動を選択するのは極めて難しいということがわかると思われます。そこに御利益をいただけるか、いただけないかの違いがあるわけです。

以下、ひとつひとつ詳しく見てみましょう。

@夢のお告げ

これは必ずしも「超自然的なお告げ」を受けることとは限りません。何らかの願いを持ち、それを信心によって実現しようと出発することです。

信心によって実現するというのは、自分が信じる対象によって導かれていることを確信し、自分に起こる出来事をすべて信仰の対象による働きかけだと受け入れることです。

言い換えれば、その信心に賭けることです。この主人公は、観音様のお告げに自分のすべてを賭けたのです。

自分はその信仰によって救われようと決心することができるか?

これがなければそもそも何も出発しないのですが、信仰者を自認しながら、なかなか心の定まらない人が多いものです。

Aわらしべを拾う

わらしべとは、稲わらの芯、あるいはわらのクズのこと。道ばたに落ちているわらしべとは、要するにただのゴミです。

我々はそれが最終的に屋敷へとつながることを知っているので、それを単なるゴミではなく、幸福をもたらす出発点と見なします。しかし、主人公の立場に身を置けば、その時点で未来を知りえようはずがないので、ただのゴミでしかないのです。

信仰を始める人は、御利益というと、即座に願いが叶うとまではいわないまでも、何か実現の方向に進んでいることを実感できることを期待します。見るからに「いいこと」がもたらされるに違いないと考えるわけです。

ところが、わらしべ長者の話ではそうではありません。およそ自分が期待するものとはかけ離れたもの、常識的に考えてまったく価値のないものが与えられるのです。

観音様がくださる「わらしべ」とは、必ずしも物とは限りません。誰かと知り合うことであったり、手伝いを頼まれることかもしれません。ただ、それが自分の願いからはかけ離れている可能性が高い、願いの実現にとってまったく無価値としか思えない可能性が高いということです。

例えば、人に紹介されたとしても、いかにも頼りがいのある立派な人とか、経済的に余裕のある人ではなく、見るからにいい加減な人であったり、貧乏でこちらの経済どころか本人の経済も大変だとか、というように。

そのため、その後の展開を自分なりに判断してしまい、隠されたチャンスを見逃したり、相手にしなかったりすることが少なくありません。

自分はわらしべを観音様から与えられたものとして受け取ることができるだろうか?

信仰者を自認する人であっても、かなりの人がこの段階で脱落します。

Bアブをつかまえる

ここも重要なポイントです。話の続きを考えればわかることですが、ここでアブをわらしべに結わえなければ、続く展開はありません。単なるわらしべを観音様からもらった男として話が終わってしまいます。

前の段階をクリアした人、つまり「わらしべ」を観音様の導きとしてつかんだ人も、多くがそのわらしべを絶対視し、それ自体が御利益を生む物と錯覚してしまいます。

ただわらしべを後生大事にありがたがっているだけでは御利益につながりません。本人によるプラスアルファが必要なのです。

とはいえ、主人公は意図的にアブをつかまえて、わらしべに付加価値をつけようとしたわけではありません。アブがまとわりついてきて、うるさかったので、それに対応しただけです。

信仰をしていても、自分なりの努力でせっかくのお導きを台無しにしている人も少なからずいます。わらしべに色をつけてみたり、手当たり次第にわらしべを拾って、束にして売り物にならないかと考えるようなものです。変な喩えだが、本当にそういう感じで一生懸命がんばっている人がいます。

さらに考えてみれば、アブを殺さなかったというのも意味があります。

普通、アブが飛んできて、追い払ってもまとわりついてくれば殺そうとするのではないでしょうか。アブを殺してしまったら後の展開はないのですが、アブはまとわりついてくるけど、殺すわけにはいかないということで、結果的にわらしべに結ぶという選択になったと思われます。

仏様の御利益をいただこうというのだから、やはり仏様の教えである「不殺生」を実践するのは当然でしょう。教えに反して御利益をいただこうとするなど、それこそ虫のいい話です。

教えに従ったからこそ、自然の流れとしてわらしべにアブを結びつけるという行動をしたと考えられるわけです。つまり、生活の中における教えに従った実践です。

自分は飛んできたアブをわらに結わえつけるだろうか?

この段階でも多くの信仰者が脱落すると思われます。

Cわらしべがミカンになる

ここはさらに難しいポイントだと思います。

まず、主人公はわらしべを観音様から与えられたものであり、それが自分を幸福にするものと認識しています。言わば唯一の頼みの綱なのです。我々はその後の展開を知っているので当たり前のように交換と思っていますが、未来を見通せない当事者にとって、それを手放すのはそうとうの勇気を必要とします。

しかも、当初から交換という話だったわけではなく、まず子どもがほしがり、その意を受けた従者が、わらに結わえたアブをくれるように頼んできたのです。主人公がためらいながらもそれを承諾し(今昔物語では、「これは観音様からいただいたものですが、そうおっしゃるなら差し上げましょう」と言っている)、結果としてお礼にミカンをもらうことになりました。

つまり、わらしべを差し出すという決心をする時点では、それがミカンとの交換になることは予測していなかったということです。信仰者を自認する人であっても、自分の身に置き換えてみたとき、主人公と同じ行動のできる人がどれだけいるでしょうか。

まして現代の自称信仰者の中には、権力者(牛車に乗った金持ちの母子)からわらしべを守り通すことが信仰などと行動する人がいるかもしれません(反権力=純粋な信仰と錯覚している人が少なからずいるようですが、信仰には権力も反権力も無関係です)。

しかし、そんなことではわらしべにアブを結わえて旅する男として話が終わってしまいます。

自分は(観音様から与えられたただ一つの頼みの綱である)わらしべを渡すことができるだろうか?

ということで、ここでも多くの信仰者が脱落してしまいます。

Dミカンが布になる

ここまで来た人にとって、この段階をクリアするのは比較的簡単かもしれませんが、内的なレベルアップを必要とするという意味で重要なポイントといえます。

ここでは、道ばたで喉の渇きに苦しんでいる人(私が記憶している昔話では女性、今昔物語では金持ちの男性)にミカンをあげ、お礼として布をもらいます。

言うまでもありませんが、これも布との交換を申し出たのではなく、まず主人公がミカンをあげ(この時点でお礼は期待していない…たとえ内心思っていたとしても)、結果としてお礼をもらっています(単なる物々交換ではないという理由)。ここまでは前の段階と同じです。

ポイントは、前の段階では相手から声がかかったのに対し、今度は自分から声をかけている点です。しかも動機は苦しんでいる人に対する慈悲心です。

わらしべを拾う段階、アブを結わえる段階は自分だけの世界で、前者は与えられた状況を素直に受け入れるという内容であるのに対して、後者は慈悲、すなわち仏の教えに基づいて行動するという内容でした。わらしべとミカンを交換する段階、ミカンと布を交換する段階では他者との関わりが生じているが、やはり前者は与えられた状況を素直に受け入れており、後者は慈悲=仏の教えに基づいて能動的に行動しています。

要するに、ここでは利他による行動ということが大切なポイントになっているといえます。自分の願いに必死になって他者を顧みないようでは、ミカン程度の御利益で終わりということです。

自分は道ばたで苦しんでいる人に声をかけ、(唯一の財産である)ミカンを与えることができるだろうか?

私自身も含め、深く反省すべきところです。

E布と馬を交換する

話そのものが飛躍的でわかりにくい展開ですが、今昔物語では、次のようになっています。

立派な馬に乗った人物が通りかかるが、男の目の前でその馬が死んでしまった。馬の主は驚き悲しむが、嘆き悲しみ、従者を後始末に残して、みすぼらしい馬で立ち去った。男が従者に尋ねると「陸奥国からこの馬を売りに都に来たが、値はいくらでも出そうと言われたものの、惜しくなって連れて帰っているところだったため、絹一疋(二反)の対価も受け取っていなかった。皮を剥ごうにも、旅の途中ではどうしようもない」と困っていたという。そこで男は、「生き物の寿命というのは不思議なものだ。皮を剥いでもすぐに干すということはできないだろう。自分はこの近くに住んでいるので、皮を剥ぐこともできるから、この布と交換しようではないか」と言った。従者は、「思わぬ利益を得た。しかし、考え直すかもしれない」といって、急いで走り去った。

ここで初めて物々交換を申し出ています。しかし、常識的に考えて主人公にとって有利な取引でないことは、従者が「男が考え直すかもしれない」と思い、急いで走り去ったことに示されています。布と死んだ馬では、よほど割に合わない取引だったはずです。

取引のたびにだんだん価値の高いものと交換されていくというのが、一般的なわらしべ長者のイメージでしょうが、そうではないということです。

ところが、ここで男は損得勘定抜きで馬と交換したのではありません。今昔物語によれば、「観音様の導きによってわらしべがミカンになり、ミカンが布になったのだから、ここで馬が生き返って、布が馬にならないということがあるだろうか」と考えて交換したというのです。そして観音様に祈ったところ、見事に馬は生き返りました。

まあ、本当に死んだ馬が生き返るかどうかはお話の中のこととして、やはり信仰による御利益をいただこうとする以上、常識の範疇を超えて信仰対象に賭ける段階が必要です。常識の範疇では常識の範疇の結果しか得られない…布程度の御利益で終わるということがここのポイントといえるでしょう。

信仰者を自認していても、この段階までクリアできる人がどの程度いるでしょうか。たしかに信仰者を自認している人の中には、そういう奇跡のような御利益を信じている人がすくなくないでしょうが、その大半は単に奇跡を期待しているだけであるため、この段階にたどり着く前に淘汰されてしまっているものです。

ただ、実際の信心では、この段階でもそんなにあっさりと奇跡的な現象が起きるとは限りません。そうならなかったときの対応が問題なのですが、そこまでやると話としておもしろくなくなります。まあ、ここまでクリアしてきている人なら、そうなっても正しく対処できると思われます。

自分は馬が生き返るかもしれないという奇跡に賭けることができるだろうか?

本当は、これ抜きに信仰者とはいえないのですが…

F馬と屋敷を交換する

御利益実現の段階ですが、実は隠れたポイントがあります。それは現実的努力ということです。

おとぎ話では、よく「大判小判がザクザク」という結末がありますが、わらしべ長者では三年間留守を預かるというものです。結果的に自分のものになるとはいえ、最初の時点では、三年後には返さなければならない(自分のものになる可能性はあるにしても)わけですから、売り払って自由に使うというわけにはいきません。むしろ、三年間、しっかり守らなければならないのです。

つまり、彼が最終的に長者となったのは、三年間、真面目に屋敷と田畑を守り、さらにその後もしっかり経営したからにほかなりません。

今昔物語の結末ではよりいっそう明確です。

男が馬に乗って平安京の郊外にたどり着いたとき、ある屋敷で旅立ちの準備をしていた。「こんな立派な馬に乗って都に入って知り合いに会ったりすると、盗んだのではないかという疑いをかけられるかもしれない。ここで売ってしまおう。旅に出るのなら馬がいるだろう」と言って、馬を飼わないかと声をかける。屋敷の主人が見ると非常によい馬なので欲しいと思うが、馬と交換する絹や布がない(まだ貨幣経済は浸透していなかった)。そこで、九条あたりにある田一町(約1ha)に米少々と交換しないかと持ちかける。男は「本当は絹か布がいいのだが、馬がいるのならおっしゃるとおりにしましょう」と承諾する。そして、手続きをして土地の権利書を受け取ると、知り合いの家に泊めてもらいながら交換した米を当座の糧とし、土地を小作に出して、収穫高の半分を小作料として取り、どんどん財産が増えていって家も建て、経済的にも精神的にも満ち足りた暮らしをした。そして、これも長谷寺の観音様のおかげだといって常にお参りしていたという。

馬を田一町と交換し、その田を小作に出すところから始めて財産が増えていったというのですが、一町歩は約1haなので、そこからの小作料だけでは、そこそこの生活はともかく、経済的にも満ち足りた生活というのは難しいのではないでしょうか。それどころか、遊びほうけていれば、あっという間に失ってしまう程度の財産です。

とすれば、そこから上手に財産を殖やしていったと考えるのが自然だと思われます。観音様が与えてくださったのはチャンスであって、最後にそれをものとしたのは本人の努力なのです。

大判小判がザックザクなどというお気楽な話ではありません。

無論、こういう形でのチャンスが与えられたのは、この主人公にそういう才覚があったからのはずで、他の才能の持ち主であれば、その才能が生かされる別の形のチャンスであることは言うまでもありません。いずれにせよ、怠けていて御利益はないということです。

自分はきちんと自分のなすべき努力をしているだろうか?

そういうことさえ必要と思わず、棚ぼた式の御利益を待ちかまえている人が少なくないのではないでしょうか。

◆  ◇  ◆  ◇  ◆

このように考えると、とんとん拍子に御利益をいただいたかのようなわらしべ長者も、実はつい見落としがちな信心のポイント、現世利益をいただくためのコツをしっかり押さえていることがわかるでしょう。

この話は、私たちのような一般信仰者にとって、下手に難しい宗教書を読んだり高尚なお説教を聞いたりするより、よほど学ぶべき内容があると思うのです。

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2008.12.09
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