古今宗教研究所 > 莫令傷心神 > 宗教と信心

前頁へ  目次へ  次頁へ

信仰で後悔しないために

信仰への疑問が生じたときに(1)


ある宗教に帰依している人が自分の信仰に疑問を持ったとき、その信仰をやめるか否かということは非常に深刻な問題になります。もちろん、いい加減にお付き合い程度の関わりをしていた場合にはさしたる問題ではないでしょうが、真剣に信じてきた人ほど、悩みは深くなるでしょう。

教団の人に相談した場合、その疑問が間違っていると説得しにかかるか、気持ちはわかるとなだめにかかるか、いずれにしても、たいていの場合、あらゆる方法を使って引き留めようとするでしょう(まれに、そうではない人もいますが)。しかし、本当に得心のいく対応をしてくれることは、めったにないと思われます。

また、教団関係者にアドバイスを頼んだ場合、周囲の自分を見る目が変わったりして、不愉快な思いをさせられることもあるので、迂闊なことを話せないということも少なくありません。

一方、教団外の人は、たいていの場合、その教団を辞めるように勧めると思われます。特に他の信仰を持っている人は、相手の信仰を批判しながら、自分たちの教団へ勧誘することが多いものです。そういう教団に限って、奥へ行くと同じような問題を抱えていることが少なくないものです(所詮、人間のやっていることですから)。

元信者や批判者による、その教団の金銭その他に関する構造的な問題や教義の矛盾点、スキャンダル等の情報も、判断において重要な材料ですが、それだけで納得できるというものでもありません。

そもそも信仰をするというのは、たいていの場合、現実的な価値観を超えた価値を見いだしたからこそするものです。また、信仰には、従来の価値観を否定して、信仰対象に絶対的に帰依するのなければ意味がないともいえます。ここが非常に微妙かつ難しいところです。

私自身の経験を考えても、現実的問題が最終的な結論を出す根拠となったわけではありません。現実的な問題点は、すでに本人の中では止めようという結論を出していて、ただ、それを決断するための一押しが欲しいという段階になってから説得力を持つものだと思います。

また、周囲から見れば問題だらけで、やめたほうがいいという信仰であっても、その時その時点において、当人のためによい結果が起きることも少なからずあります。もし信仰を無理に止めさせて、周囲のものが同等ないしはそれ以上のことをしてあげられるかというと、まず不可能ということさえあります(これは自分自身も体験してきましたし、身のまわりでも少なからず見てきました)。

信仰においては、本人における結果ということだけを考えれば、信仰対象の如何よりも、絶対的に信じるということ自体に、より重要な意味があります。ですから、少なくとも信仰を持つ人間であれば、物事の道理という観点から話はできても、相手の信仰を揺るがすこと自体を目的とする説得は厳に戒められるべきだと思います。

あるいは、基本的に犯罪や反社会的行為、常識に反するような宗教団体には関わるべきではないというのは確かにその通りなのですが、歴史を見ると必ずしも僧徒ばかりは言い切れません。現代では確固たる地位を占めている伝統教団でも、最初期には非常識・反社会的な集団と見なされていた場合も少なからずあります。教祖や初期のメンバーが、社会的な批判や誹謗中傷に負けず、自分たちの信念を貫いた結果として、現代における権威を保っているわけです。

とするならば、犯罪行為は論外としても、現代社会において反社会的、非常識と見なされている教団が、将来においては高く評価されたり、社会のスタンダードになる可能性だってあるわけです。もちろん、価値のないものであれば消え去っていくでしょうが、我々凡人にとって、その見極めは非常に難しいところです。

一方、実は問題が単なる本人のわがままだというケースもあります。何か気に入らないことがあったり飽きたりすると、信仰を続けるのが我慢ならなくなったり、他の教団がよく見えたりするようになって、ということを繰り返しながら、通過してきた教団に不満や恨みばかり残して、何も得ることなく宗教遍歴を繰り返していたりする人もいます。そういう人は、多少のことは我慢して一カ所にとどまったほうが本人のためにもなるでしょう。

ただ、そうは言っても、問題のある教団に所属するとよくない結果になる確率は極めて高いものです。また、特に問題のない教団であっても、その人自身にとってはためにならない教団もあるわけで、そういうところでは、いくら頑張ってもよい結果にはなりません。そのような場合は、未練を残さず早々にやめたほうがいいわけで、何事も信仰的に受け止めて、などという姿勢も問題があります。

このように考えていくと、信仰に疑問が生じたからといって、信仰をやめるにせよ、続けるにせよ、これが正解ということは誰にも断言できないと思われます。結局、本人が自己責任において結論を出し、それを善しとするしかないのですが、やはりその見極めは非常に困難です。

こういう問題について、自分自身の経験や、相談を受けてきた内容から考えると、個々の教団の問題も大切ですが、それよりも各宗教を相対化して、宗教とか信仰などという枠を超えた普遍的な観点から問題を整理することが求められているのではないか、という気がします。

そこで、私自身の経験や見聞に基づいて、ポイントになると思われる問題について、いくつかの考え方を提示してみたいと思います。

次へ

前頁へ 目次へ 次頁へ


2003.05.30
古今宗教研究所
Copyright(C) 1998-2016 Murakami Tetsuki. All rights reserved.