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信仰で後悔しないために

宗教団体の見極め方(1)


老人が大切にされているか?

宗教団体を評価する一つの目安として、経済力のない老人に対する扱いがあると思う。つまり、貧しいお年寄りが大切にされているかどうか、という基準を提案したい。

経済力のない老人がないがしろにされているのではないか、と感じたなら、その教団とは早々に縁を切るべきである。

少し前、元統一教会員のご婦人から聞いた話である。彼女の近所に統一教会の信者で、子どものいない老婦人が住んでいるのだそうである。その方は統一教会に数千万の献金をしているのだそうだが、毎日、地域の幹部や会員たちが来て、家土地を売って献金するように説得していたという。さすがにその老婦人も心配になって、どうしたものか相談してきたそうだ。

そこで、統一教会対策で有名なY弁護士に依頼して、間に入ってもらったところ、たちまち教会側が手を引いたそうである。

ところが、いざ解決して老婦人が喜んだかというと、必ずしもそうではなかったらしい。身寄りのない彼女にとって、やはり何かと親切にしてくれる統一教会の人たちの存在は、心の支えになっていたらしい(だからこそ数千万円の献金をしたわけである)。

この場合、統一教会の人たちは、老婦人自身に対する愛情から親切にしたわけではない。あくまで彼女の財産が目的だったわけである。こういうハゲタカのような連中でも、献金という目的があれば、普通の人以上に親切にする。かつての豊田商事事件もそうであった。

そういう意味で、財産のある老人が特別扱いされているならば、それも警戒すべき観点となろう。

私の見聞した限りでは、教団組織の維持と自身の地位のために活動している幹部・信者というのは、貧しい老人をないがしろにする傾向がある(無論、元から親切な人も多いので、一般社会よりは親切にされることが多いと思う)。

若い人たちは実働部隊として役に立つし、財産のある老人は上客である。つまり、自分にとって役に立つ人々である。これに対して、貧しいお年寄りというのは、目先の損得で価値を判断する人々にとっては役に立たない存在である。

もちろん宗教団体なので、目先の損得で価値を判断するような人たちでも、一応は誰にでも親切にするのが普通だが、中にはあからさまに軽んじる幹部もいた。

また、知的な方面にかたよった教団では、理屈や知識を苦手とすることが多い老人たちは、辛い思いをする場面が多いように思う。「私は何もわからないから」という言葉を何度聞いたことであろうか。

しかし、そういう「わからない」と言う人たちのほうが、よほど信仰的な生き方をしているのである(そもそも信仰的な人であれば、周囲の人に「私は何もわからないから」などという嘆きの言葉を言わせるようなことはしないであろう)。

貧しい老人を喜ばせるというのは、金や活動力という意味での見返りがない行為である。しかし、そういう見返りのない行為をすることが宗教に携わる人間であることの価値ではないだろうか。

宗教団体に来る人というのは、人とのつながりを求めてくる人が大半だと思う(真理を求める人なら宗教団体には我慢できなくなるだろう)。宗教団体はいろいろ問題を抱えているが、見返りのない人間関係を作ることができるという可能性を持っている点が、現代社会における最大の価値であろう。

実際には教団の問題というよりも、個々人の対応による差が大きいであろう。しかし教団として明確な方針を持てば全体の風潮は変わるはず。といっても、本来は人として当たり前のことなのだが。

老人を嘆かせたり苦しませたりするような教団とは関わるべきではない。そんなところに本当の幸福があるはずがない。

せっかく宗教に携わっているのだから、せめて来ているお年寄りたちに、通ってきてよかったと思ってもらえるようにはしてもらいたいものではないか。そういう温かい心の通ったところこそ理想の世界、地上天国というべきである。

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2005.01.24
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