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反社会的カルト考

「青春を返せ裁判」批判(下)


しかし、問題はそれだけでない。

自分にとっての自分が送ってきた人生の価値は、何をしてきたかということは当然だが、それ以上に、それを自分がどう評価しているか、また、その後の人生においてどう活かしたか、ということにあると思う。

自分自身の体験から言えば、天地正教・統一教会に関わったころの自分というのは、本当に愚かであったと思う。どんなに言葉を飾ったとしても、所詮は統一教会を信じるレベルの人間だったということである。
しかし、今の自分という存在にとって、統一教会との関わりは必要不可欠だったということも間違いない。善くも悪くも、統一教会という過程を経て今の自分があるのであって、統一教会を抜きにして、愚かだった当時の自分がどの程度成長できたかというと極めて心許ない。統一教会という、ある意味で一般常識を逸脱した環境に身を置くことにより成長できたわけで、結局、当時の自分にとっては、統一教会程度のものがふさわしかったということだ。

言い換えれば、自分が統一教会に関わる必要のないレベルの人間であったならば、関わらずにすんでいたのである。自分自身が統一教会に関わった期間というのは、そこまでレベルアップするのに要した時間ということもできる。

このように考えれば、自分にとって、統一教会に費やした時間は決して無駄であったとは言えない(さすがに「思えない」という言葉を使う気にはなれないが)。確かにマイナス面もあるが、そこに注目すれば悲惨な青春ということになるし、プラス面に注目すれば有意義な青春ということになる。

そもそも理想的な人生を送ることのできる人など滅多にいない。あるいは、本人は気づかなくても、周囲から見れば寂しい人生だということもある。過去の人生が変えられない以上、それが有意義な人生であったか、無意味な人生であったかを決めるのは、本人のとらえよう一つであって、他人の干渉しうるものではない。あるいは、余力があるならば、過去のマイナスをプラスに転換することも可能であろう。少なくとも現代の日本では、北朝鮮のような社会と違い、等しくそのチャンスが与えられている。

これが、北朝鮮による拉致事件などのように、理不尽な暴力によって行われ、そこから逃れようとすると生命が危機にさらされるというようなことなら別である。それでさえもとらえようだと言えないわけではないのかもしれないが、そのような心境に達するのはよほどのことであって、とても私などにそのようなことを言う権利はない。

しかし、統一教会の場合は99%以上の人間が引っかからないようなマインドコントロールに引っかかっただけのことで、暴力的に強制されたわけでもない。使命感や選民意識をくすぐられてその気になったわけで、統一教会を攻撃すればするほど、自分の愚かさをさらけ出しているようなものである。

また、統一教会における自分の人生を否定するということは、マイナス面を認めないということでもあろうが、プラス面も認めないということである。つまり、統一教会に出会った頃の自分に戻ったようなものだ。自分の愚かさ、マイナス面を認めずして、どうして人間として成長できるだろうか。

このような観点から考える時、「青春を返せ裁判」というものは、数百万もしくは数千万の金と引き替えに、自分の人生の一部分が無駄であったと自他ともに確認するようなものと言わざるを得ない。裁判の勝者になることによって、人生の敗者になっていると思う。

これは実に恥ずかしいことであって、自分自身の人生に対する冒涜ではないだろうか。

私自身の体験を振り返れば、もともと統一教会が大嫌いであったため、統一教会へ献身することを勧められたときには相当の葛藤があった。結局、自分を導いている何ものか(神仏と呼ぶか、先祖と呼ぶか、その他の名前で呼ぶか)を信じて献身することにしたが、その時心に決めたことは、「たとえ統一教会が間違っていたとしても、『青春を返せ裁判』のような恥ずかしいことだけはするまい」ということであった。

結果的に、諸般の事情で統一教会への献身はなくなり、天地正教に戻って比較的恵まれた境遇におかれ、その後も不思議と統一教会のマイナス部分には関わらずにすんだ。それは極めて好運なことで、守り導かれたと感謝せずにはおられないことである。また、それが信仰の醍醐味であると思うのだが、自分としては「青春を返せ裁判」のようなことはするまいと決意していたことが大きかったと考えている。

以上のような観点から見て、私は「青春を返せ裁判」なるものについて、批判的にならざるを得ないのである。

私の周囲には、長年にわたる統一教会での活動の末に疑問を持ち、脱会して第二の人生を確立すべく苦闘している人が少なからずいる(教会組織と巧くつき合って、要領よく人生を送っている人もいるが)。教会からは何の保証もない上に、年を取って就ける仕事も限られ、社会的に評価されるキャリアもなく、その上不況がかさなって、大変な人が多い。冗談のように言う「青春を返せと言いたいよ」という言葉は、半分以上本音だろう。

しかし、私の知る限り、自分の意志でやめた人には「青春を返せ」という裁判を起こした人はいない。大変な中でも、黙々と人生を取り返そうとしている。生きていくためには、うじうじと過去を振り返っている暇はない。そして、これは統一教会云々とは無関係に、世の中で一生懸命生きている人間なら同じではないかと思う。

統一教会は確かに反社会的な団体である。世間から糾弾されるのはしかたがない。それでも「青春を返せ裁判」に関してだけは、肯定的に評価できる根拠はないと言わざるを得ないのである。

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2004.10.31
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