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靖国神社

拝殿

靖國神社〔やすくにじんじゃ〕ほど時代に翻弄され、今なお多くの議論の的となっている神社は他にあるまい。旧社格は別格官幣社で、現在は単立神社。

19世紀、アジア・アフリカ・中南米・大洋州の国々は、欧米列強の帝国主義政策の下、次々と植民地化され、その勢いは日本へも及びつつあった。ロシアや英国などの艦船が日本近海に現れたが、当時の幕府はあくまで鎖国体制を堅持することで対処しようとしていた。

靖國神社御朱印

しかし嘉永6年(1853)、ペリー提督率いる東インド艦隊の来航により、日本が世界の中で孤立したまま太平の世を謳歌することはできなくなった。一つ方向を間違えばたちまち植民地化されてしまう弱肉強食の世界の中で、圧倒的な科学文明を誇る欧米列強を相手に、困難な舵取りをしなければならなくなったのである。

我々が日本史の一コマとして明治維新を見るとき、例えば源平の戦いや南北朝の争乱、あるいは戦国時代から徳川幕府の成立に至る戦乱と同列に考えがちであるが、大きな間違いである。それらは外の世界と直接関係のない国内の覇権争いであった。

しかし、明治維新は日本史上初めて、世界との関わりの中で、日本が植民地にされるかも知れないという危機的状況下で行われたのである。

当時は国連のような国際機関があったわけでもなく、列強間のむき出しの欲望が衝突していた時代である。当然、弱小国が強大国の善意を期待することなどできようはずがない。
事実、世界の大半が列強の植民地となり、それを免れた国家はごくわずかである。その中には、国内の覇権争いを有利に進めるために外国勢力の力を借り、その結果、属国化・植民地化していった国も多い。

神門

靖国神社は、そのような困難な情勢の中で創立された。靖国神社を考えるとき、この視点を忘れては本質を見誤るのではないだろうか。

我々の先人が切羽詰まった状況の中で最善を尽くしてきたことに対し、その恩恵を存分に受けながら、現代の価値観で批判するというのは天に向かって唾を吐くようなものである。我々自身が現代という時代の制約の中で思考し、行動しているにも関わらず、それが未来においても通用すると錯覚しているのでない限り到底できまい。

歴史には必ず功罪がある。禍福があざなえる縄の如くであるように、歴史上の功罪は切り離して考えることはできない。最近の歴史観を巡る論争を見ると、功のみ、罪のみ見ようとする傾向が強いように思われる。

しかし、そのどちらからも正しい歴史の教訓を学ぶことはできないと思う。

明治元年(1868)6月2日、征東大総督・有栖川宮熾仁親王〔ありすがわのみやたるひとしんのう〕は江戸城大広間において、関東・東北で戦死した倒幕軍の将兵の招魂祭を執り行った。翌2年6月27日、九段坂上の現社地に東京招魂社〔とうきょうしょうこんしゃ〕として仮本殿が竣工し、鳥羽・伏見の戦いから箱館戦争に至る戦没者3,588柱を祀った。これが靖国神社の創祀である。

明治12年(1879)、明治天皇により「靖國神社」と改称し、別格官幣社に列格した。「靖國」とは「国を安んずる」「平和な国を作る」という意味である。当時の日本の国内外の情勢を考えるとき、その願いはどれほど切実なものであっただろうか。

その後、事変・戦役の度に、国事殉難者が次々合祀された。また、嘉永6年以降に幕府によって処刑された維新の志士(吉田松陰、橋本左内といった人々)も、国事殉難者として祀られた。

戦役・事変別 御祭神の柱数
明治維新 7,751柱 西南戦争 6,971柱
日清戦争 13,619柱 台湾征討 1,130柱
北清事変 1,256柱 日露戦争 88,429柱
第一次世界大戦 4,850柱 済南事変 185柱
満州事変 17,176柱 支那事変 191,243柱
大東亜戦争 2,133,885柱    
合計  2,466,495柱

以上の御祭神の中には、幕府側で戦った人々(例えば白虎隊や新撰組)や明治政府に対して氾濫を起こした人々(例えば西南戦争の薩摩軍、西郷隆盛など)は含まれない。これらの人々は歴史の犠牲者であり、また維新の功労者も多いが、国事殉難者ではないためである。
また、軍事における功労者であるからといって祭神に加えられるわけではない。例えば日露戦争における乃木希典・東郷平八郎・児玉源太郎などは、後にこれらの人々を祭神とする神社が建立されているものの、靖国神社の祭神とはなっていない。

参集所

第二次大戦中の戦没者の合祀については、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」の該当者ということが基準になっている。そのため、軍人・軍属だけではなく、徴用された船舶の乗組員、空襲警報下で避難誘導・消火作業等に当たっていた消防団員、国民義勇軍の団員なども含まれる。また、樺太・真岡で殉職した女子電話交換手や、米軍によって撃沈された対馬丸で疎開中だった沖縄の小学生も祀られている。

第二次大戦後、靖国神社は困難な時代を迎える。GHQは日本の精神的支柱として神道及び靖国神社の存在を重視し、その焼却を計画した。

しかし、マッカーサー元帥の諮問を受けたローマ教皇庁の駐日代表でブルーノ・ビッター神父は、「自然の法に基づいて考えると、いかなる国家も、その国家のために死んだ人びとに対して、敬意をはらう権利と義務があるといえる。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。無名戦士の墓を想起すれば、以上のことは自然に理解出来るはずである」としてこれに反対した。
マッカーサーがこれを受け入れたことにより、靖国神社の焼却計画は中止になったのである。

遊就館

とはいえ、他の神社と同じように、靖國神社も国家の管理を離れて一宗教法人となった。これ以後、靖國神社の国家護持問題・玉串料訴訟・A級戦犯分祀問題・国立慰霊施設新設問題等、さまざまな議論が起こった。

特に一部の宗教団体や宗教者は、ことさらに靖國神社を軍国主義のシンボルとして扱い、これを卑しめたり攻撃することによって、自らの平和主義をアピールする手段としている。

近年は、小泉純一郎首相の参拝をきっかけとして、首相の靖國参拝問題がクローズアップされている。ことに中国が、自国の内政問題から国民の目をそらす手段として世論を反日へ誘導し、靖國神社をそのシンボルとして利用している。
国内の靖國神社を批判する人々も、この動きに連動して世論を喚起しようとしているが、一般の国民は冷静に対応しているようである。

因みに、戦後、小泉純一郎首相以外に靖國神社に参拝した首相は、東久邇稔彦(1回)・幣原喜重郎(2回)・吉田茂(5回)・岸信介(2回)・池田勇人(5回)・佐藤栄作(11回)・田中角栄(5回)・三木武夫(3回)・福田赳夫(4回)・大平正芳(3回)・鈴木善幸(9回)・中曽根康弘(10回)・橋本龍太郎(1回)である。

首相の靖國参拝が大きな問題になったのは、昭和60年(1985)8月15日、中曽根首相が公式参拝を明言したことによる。これに対して、国内外から大きな批判が起こった。
中曽根首相は、中国において、改革派の胡耀邦総書記に対する保守派からの攻撃材料として靖國問題が利用されていることを察知し、それ以降の靖國参拝を断念した。以後、平成8年(1996)まで、首相の靖國参拝は途絶えたままであった。

神池庭園

なお、この時、中国側から持ち出されたのがA級戦犯合祀問題であった。靖國神社にA級戦犯が合祀されていることを根拠として、「我が国人民の感情を傷つけた」と抗議したのである。

A級戦犯は、上記、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」と「恩給法」が適用されることを根拠とし、昭和41年2月8日付「靖國神社未合祀戦争裁判関係死没者に関する祭神名票について」(厚生省引揚援護局調査課長通知)に基づいて、昭和53年に合祀されている。

そもそもA級戦犯とは、極東国際軍事裁判(東京裁判)において「平和に対する罪」を問われた人々である。しかし、この裁判は戦勝国による一方的な報復という側面が強い。「平和に対する罪」も、日本とドイツを裁くために後付けされたものであり、不当な裁判として批判も強い。

また、昭和28年の「戦傷病者戦没者遺族等援護法」改正により、旧敵国の軍事裁判で罪人とされた人は日本の国内法では罪人と見なさないという判断基準が明確に示されている。このため、日本の国内法においては、A級戦犯という概念はない。

余談.このように、A級戦犯というのは、その正当性が疑われている軍事裁判において、後付けの罪状によって裁かれた人である。無論、これらの人々に責任がなかったということはできないが、当時の世界情勢、また国民一般の意識や感情を考えたとき、それらの人々のみを戦争の責任者として責任を押しつけることができるであろうか。
にも関わらず、一部の宗教団体や宗教家は、一方で愛や慈悲を説きながら、これらの人々を極悪人として扱い、糾弾している。しかも興味深いことに、自らを罪悪深重の凡夫だとか罪人だとか自覚し、神や仏の恩寵によって救われるしかないという教義を持つ教団に多い。
真に「罪の自覚」「凡夫の自覚」があるならば、人の罪や悪を見たときに、まず自分のうちの罪や悪を顧みるであろう。そうして、恩寵によって許されている自分に気づくならば、およそ上から他人を裁いたり、赦したりなどということができようはずはない(すべて自分のうちにあるものだから、たまたま表に現れなかったことを感謝するしかない)。その上で行う批判は、他の人が持ち得ない慈悲・愛が込められているため、相手には嫌みや不快感を与えなくなる。
ところが、自らの罪や悪に対する自覚が中途半端だと、信仰が自らの罪・悪から目をそらし、自己を正当化するための手段になってしまう。そして、その反動として他人の中に自らの内なる罪や悪を見出し、それを批判・攻撃することによって補償しようとする。そのため、本来、そういった信仰ではあり得ないはずの独善性や他罰的な傾向を持つようになる。
靖國問題を巡る一部宗教者・宗教団体の行動は、「他力本願」「信仰義認説」という信仰の形が一見簡単そうで、実は非常に難しいものであることを示しているように思われる。

大鳥居(第一鳥居)

九段坂下の大鳥居から本殿に向かってまっすぐ参道が進む。途中、上野方面を眺める大村益次郎の銅像が建つ。明治26年(1893)、日本で初めての西洋式銅像として建立されたものである。

さらに進んで第二鳥居、神門をくぐると拝殿前へと出る。拝殿の奥に本殿、その後ろに靖國に祀られた英霊の名簿を納める霊璽簿奉安殿がある。

拝殿前から右に進むと、御鎮座130年事業の一環として新築なった参集所が真新しい姿を見せる。さらに進むと遊就館があり、英霊ゆかりの遺品等が展示されている。訪れる人は英霊の真情に感銘を受け、その犠牲を無駄にするまいと、平和への願いをいっそう強くするのである(一部の人は戦争礼賛と受け取るようである。最近流行の心理テストでもわかるように、何かを見て何を感じるかは、その人の心の中を表す。靖國に好意的な人であれ、批判的な人であれ、どちらでもない人であれ、争いを好む人は戦争礼賛と感じるだろうし、争いを嫌う人は平和への決意を新たにするだろう)

遊就館の前には、軍馬・軍犬・軍鳩の慰霊碑、母の像などがある。その奥には神池庭園がある。

鎮霊社 元宮

拝殿から本殿に進む南回廊の脇には「鎮霊社」と「元宮」が鎮座する。

元宮は文久3年(1863)、津和野藩士・福羽美静らが京都の祇園社(八坂神社)境内に小祠を建立し、同志の霊を祀ったものである。後、幕府の嫌疑を恐れて福羽邸内に移したが、昭和6年(1931)、靖國神社に奉納された。招魂社の源流となるところから、元宮と称する。

鎮霊社は昭和40年(1965年)、靖國神社本殿に祀られていない人々の御霊と、古今東西の戦争犠牲者を祀るために建立されたものである。これに対する評価はさまざまであろうが、あたかも軍国主義のシンボルのように誹謗されながら、ことさらにアピールすることもなく地道に戦争犠牲者のための祭祀を続けていることに対して、宗教者としての良心を見るべきであろうと思う。

靖國神社境内の桜は「靖國の桜」「九段の桜」として有名である。気象庁による桜前線も、靖國の桜が都内の標準木とされている。

参考:靖國神社公式サイト(靖國神社社務所)
『神社辞典』(東京堂出版)
『靖國神社への呪縛を解く』大原康男(小学館) 他、関連資料

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靖國神社(やすくにじんじゃ)の概要
◆鎮座地 東京都千代田区九段北3−1−1 (地図表示:マピオン)
◆旧社格 別格官幣社(現・単立神社)、勅祭社
◆祭神 嘉永6年以降の国事殉難の英霊
◆創祀 明治2年(1869年)
◆社紋 十六八重菊のうちに山桜
◆例祭 4月21〜23日(春季)
10月17〜20日(秋季)
◆特殊神事等 7月13日〜16日 みたま祭り

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2005.01.10
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