尾張国二宮・大縣神社〔おおあがたじんじゃ〕(以下、大県神社)は愛知県犬山市の南部、本宮山の麓に鎮座する。
御祭神は大県大神〔おおあがたのおおかみ〕。創祀は不詳だが、垂仁天皇27年(紀元前3)、本宮山頂より現社地に遷座したと伝えられる。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
大県大神については、国狭槌尊〔くにさづちのみこと〕(『尾張名所図絵』等)とする説など諸説あるが、尾張藩の儒者・松平君山の考証などに基づき、大荒田命〔おおあらたのみこと〕とする説が有力である。
ただし、神社の由緒書には「大縣大神」とのみあり、尾張開拓の祖神としている。いずれの説を採るにしても、当地方開拓の祖を祀っていることは間違いあるまい。
大荒田命は邇波県君〔にはのあがたのきみ〕の祖で、倭建命〔やまとたけるのみこと〕三世の孫とされる(『新撰姓氏録』)。また、『先代旧事本紀』には、尾張氏十二世の建稲種命〔たけいなだねのみこと〕が邇波県君の祖・大荒田の女子・玉姫を妻として二男四女をもうけたと記されている。
本宮山は尾張国最高峰(293メートル)で、尾張富士を小富士と呼ぶのに対して、大富士とも呼ばれる。頂上には、大県大神の荒魂を祀る奥宮・本宮社が鎮座する。
『続日本後紀』には承和14年(847)、尾張国無位大県天神と真清田天神に従五位下を授けるとあり、『文徳実録』には仁寿元年(851)、詔を以て尾張国真清田・大県両神を官社に列せられたとある。以後、同3年(853)従四位下、貞観元年(859)従四位上、同15年(873)正四位下へと昇叙された。『尾張国神名帳』には「正一位大県大明神」と記載される。
延喜の制では名神大社。中世以降は、一宮・真清田神社に次ぐ尾張国二宮として崇敬を集めた。
天正10年(1582)、織田信雄は二宮社人中の田畠屋敷を安堵し、元和8年(1622)初代尾張藩主・徳川義直は社領として136石5斗1升7合を寄進。延宝2年(1674)、二代藩主・光友が63石3斗8升3合を加増して200石となった。
明治9年(1876)、県社に列せられ、大正6年(1917)、国幣中社に昇格した。
名鉄小牧線の楽田駅から西へまっすぐ1.5Kmほど進むと、大県神社の鳥居が見えてくる。境内に入り、社務所・斎舘の前を通り過ぎると、右手に拝殿があり、「尾張造り」の社殿が並ぶ。寛文元年(1661)に徳川光友が造営したもので、本殿・祭文殿・廻廊が国の重要文化財に指定されている。
「尾張造り」というのは、切妻妻入・板床の拝殿、祭文殿(四脚門)、釣殿、本殿が一直線に並び、祭文殿から左右に出た廻廊が本殿を囲むという様式で、尾張地方の神社によく見られる(真清田神社や津島神社、尾張大國霊神社など。熱田神宮も現在は神明造だが、もとは尾張造りであった)。
特に大県神社の本殿は、三棟造(大県造)と称される特殊な様式だというが、外からはよく見えない。
参道の正面、石段を登ると摂社の姫之宮があり、玉比売命〔たまひめのみこと〕(大荒田命の娘)と倉稲魂神〔うがみたまのかみ〕を祀る。
陰陽石の信仰があり、本殿の背後に「姫石」(陰石)が安置されている。安産、子授け、縁結び、子育て、婦人病など、特に女性の守護神として信仰を集めているという。
3月15日直前の日曜日に行われる姫之宮の豊年祭は、天下の奇祭として知られる。小牧市久保一色の式内社・田県神社〔たがたじんじゃ〕の豊年祭と対になるもので、かつては同じ3月15日(旧暦では1月15日だった)に行われていた。
田県神社が陽の祭であるのに対し、姫之宮の祭は陰の祭とされ、女陰を象った神輿を中心とする神幸行列が行われていたが、戦後、風紀上の問題があるということで、おかめの顔の御輿に変わったという。古代の素朴な信仰を今に伝える貴重な神事である。
また、姫之宮の脇には、同じく摂社の大黒恵比須神社があり、1月3日の初ゑびす祭は愛知県下三大ゑびすの一つとして多くの参詣者が集まる。
なお、大県神社の西方約4キロにある青塚古墳(王塚、茶臼山古墳とも呼ばれる)は当社の所有で、国の史跡に指定されている。全長120メートル、愛知県内では断夫山古墳に次ぐ規模を誇る。4世紀半ばの築造で、葺石、周濠を有し、その優美な姿は全国でも屈指とされる。