坐摩神社〔いかすりじんじゃ〕は、正しくは「いかすり」と訓むが、「ざま」と通称されることが多いという。その語源は諸説あるが、土地または居住地を守ることを意味する居所知〔いかしり〕が転じたものという(坐摩神社御由緒略記)。また、「難波大社」と呼ばれたこともあったという。
御祭神は生井神〔いくゐのかみ〕、福井神〔さくゐのかみ〕、綱長井神〔つながゐのかみ〕、波比岐神〔はひきのかみ〕、阿須波神〔はすはのかみ〕。この五柱の神は、宮中の神祇官西院で坐摩巫〔いかすりのみかんなぎ〕によって祀られていた。『古語拾遺』等によると、神武天皇の御代、神勅によって宮中に奉斎されたとされる。
宮司の渡辺氏は都下国造〔つげのくにのみやつこ〕の末裔とされる。都下国造については、延喜式に坐摩巫には都下国造の7歳以上の童女を充てるとされている。
かつては淀川南岸の渡辺の地、現在の中央区石町に鎮座していた。現在は御旅所となっており、行宮が鎮座する。神功皇后が三韓征伐より帰還された際、この地に坐摩神を祀ったのが当社の創祀という。
『難波鑑』などによれば、神功皇后が休息されていた時、一人の賎女が醤〔ひしお〕を献じたと伝えられる。『和漢三才図会』には「座摩社 祭神一座 神功皇后」と記されており、神功皇后が祭神とされていた時期もあったようだ。
神紋の白鷺は、神功皇后が白鷺の多く集まる地に坐摩神を奉斎するようにという神託を受けたことに由来する。
古来、朝廷の崇敬篤く、大同元年(806年)、神封2戸を寄進され、貞観元年(859年)、従五位下が授けられた。延喜式神名帳では、西成郡で唯一の大社であり、月次・相嘗・新嘗の官幣に預かっている。天慶2年(939年)には祈雨の奉幣があった。摂津国一宮を称する。
因みに、他に摂津国一宮を称する神社として旧官幣大社・住吉大社がある。『百錬抄』には「元仁元年四月十三日有軒廊御ト住吉末社座摩社門並荒垣等去年十二月廿七日焼亡事」という記事があり、『蘆分船』には、往古、住吉大社は二十年ごとに社殿を造営していたが、この時には必ず坐摩社も造り替えられていたとされる。このことから、かつて坐摩神社は住吉大社の末社であった時期があったと考えられている。
天正10年(1582年)、豊臣秀吉の大阪築城に当たって替え地を命じられ、寛政年間に船場の現社地へ遷座した。この地の旧名を渡辺町というが、旧社地の地名が移されたものという。
当時は社前に多くの物売りや見せ物が集まって賑わった。特に古着屋が多く、「坐摩の古手屋」と呼ばれた。後に船場が繊維の町として発展するようになった要因の一つだとのことである。
安政5年(1858年)、攘夷のご祈祷を行う。明治天皇の御誕生に際しては宮中より御祈願があり、明治元年(1868年)には大阪行幸をされた明治天皇が親拝され、相撲をご覧になった。
昭和11年(1936)、官幣中社に昇格。この時、新しい社殿が造営されたが空襲で焼失し、昭和35年(1960)、鉄筋コンクリートで再建された。
境内は大阪のメイン・ストリートである御堂筋から一本西に入った通りに面している。斜め向かいには真宗大谷派の難波別院(南御堂)がある。入口に珍しい三ツ鳥居が建ち、正面に拝殿、右手に末社、左手に社務所と大阪府神社庁がある。
社務所の西側にも末社があり、陶器神社はかつて西横堀川に多かった陶器問屋の守護神とされる。
例祭は4月22日で「献花祭」といわれ、神前に花(小原流の生け花)が献じられる。また、特殊神事として12月2日の懸鳥祭などがある。
参考:『坐摩神社御由緒略記』(坐摩神社)
『大阪府神社史資料』(大阪府神社庁)
『神社辞典』(東京堂出版)